海外と連帯できると思った日本フェミニストの誤算。

  25, 2017 11:01
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異性装や同性愛が厳しい宗教的タブーとなっている国・地域において、あえて女流がそれを主題として創作することは、男性に対するラディカルな挑戦を意味するのです。

とくにキリスト教の神は、「父と子と」というくらいで、女神として示される神格ではありません。その戒律に挑戦するということは、女性は神をも疑う・教会の権威を否定する・市民社会を否定するという、激烈なレジスタンスを意味するのです。

けれども、女装の男性を国民的芸術家として称賛し、芸術院会員に選出し、文化勲章を授与するという日本においては、むしろ「それを見ない」ことこそ、男性の自己中心性に対する抵抗となるのです。

すなわち「歌舞伎に女優を出演させろ」とか「時代劇における殿様と色小姓という表現は不快である」とか言うことこそ、フェミニストの役割となるのです。おもしろがってる場合じゃないのです。

逆にいえば、女装の男性俳優はもちろん、実際に性愛の場面において女役をつとめる男性もいるという事実を、なんとな~~く「世の中そういうもの」として受け入れている日本の女性は、男性に対してたいへん協調的・迎合的なのです。

男女によって経営される家庭においては、その話題が登場することがなかったので、たんに知らなかったという少女が、創作物を通じて「そういうこともある」と知ったということは、彼女が一つおとなになったことを意味するに過ぎません。

彼女は既存の男性中心社会に一歩を踏み入れただけであり、それを否定することや、抵抗することを覚えたのではありません。

日本の少女が既存の男性中心社会を否定するということは、そこに含まれる異性装や同性愛の要素に忌避感を示し、家庭的無知に留まりたがって「ママみたいになりたい」と言うことなのです。(!)

【未知との遭遇】

日本は、皇祖神が女性であることを誰も疑わない国です。

本来は輸入宗教の修行者である菩薩さえ、痩せさらばえた男性ではなく、たおやかな女性のように造形する国です。

その社会の上層部である皇族・貴族は(明治時代に官軍としてかつぎ出されるまでは)西欧のように騎士階級とイコールではなく、みずからは武器を執って戦わない人々。化粧する人々。

その貴族社会から生み出された最古の文芸として称賛されるのは女流作品です。

海外が、日本に関心を持てば持つほど、日本が海外と同レベルで男性中心社会であるとは感じられないはずです。

日本人が、そのような自国の文化の特異性を認識せずに、うかつに海外と連帯できると思ってしまえば、先方から日本文化の独自性について質問されて、たじたじとなるだけです。

「わ、私、古典には詳しくないから……」ってね。

とくに、貿易黒字達成によって海外旅行熱が高まった1980年代は、日本の伝統が忘れられた時代と言ってもいいでしょう。

日本人が海外への憧れをもって、海外へ出かけ、海外に日本のBLを紹介し、連帯しましょうと言えば?

先方からは「なぜあなた達は日本固有の文化として描かないのか。なぜ金髪の若者ばかり描くのか。わが国の学校ではこのようなことは行われていない。これはわが国に対する皮肉なのか」など、痛烈な質問を受けるだけであるはずです。

【ふらんすはあまりに遠し】

実際に、日本人の男性映画監督は、その主題を「過去の日本における日本人男性同士の行為」として描くわけです。数は少ないですが、1960年代にも、1970年代にも、1980年代にも、そういう映画が存在します。

けれども、日本の女流漫画家は、より現実逃避的で、金髪の白人にしか見えない白い髪の若者ばかり描いている。

海外の人間から見れば、なによりも興味深いのは、その「日本女性が古来より高い識字率を誇り、世界的に見て例外的なほどの自由を享受しながら、自分自身の民族性に誇りを持っておらず、海外への憧ればかり表現している」ということです。

日本の創作家である女性と、出版人である男性が協力して、白人中心欧米文化に対するルサンチマンを表現しており、文芸評論家もそれを支持し、時に文学賞・漫画賞などを与えて称賛し、一般男性も事実としてそれを黙認している。

どう見ても、日本は、女性の自由を抑圧し、女性の自己表現と社会進出を許さない国ではないのです。男女が協力して、白人文化に対する愛憎半ばする表現に邁進する国なのです。

それは、当の欧米白人にとっては、神に逆らい、地獄に落ちる覚悟をもって男性ホモソーシャルに皮肉を言わねばならない我がほうの女性たちとは違って、たいへん恵まれているというふうに感じられるはずです。

日本の男女は、白人中心欧米文化を仮想敵とすることによって、団結できる。当の欧米白人にとっては、それが最も面白い点であるとともに「生意気だ」というふうに感じられるはずです。口には出さないでしょうが。

つまるところ、男性ホモソーシャル理論の直輸入では、日本社会を論じたことにはなりません。自分自身を知らないことを、他人によって気づかされるだけです。

うかつにコスモポリタンになれると信じ、世界同時革命を夢見た日本のフェミニスト。

その、憧れの心を海外へ持ち出せば「外人の仲間にしてもらえる」と信じる姿は、新宿二丁目へ行けば歓迎してもらえると信じる姿にそっくりです。


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