【まことに今更だが、やおいはトランスゲイではない】

  07, 2014 09:43
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「自己実現の困難さゆえに摂食障害を発症したトランスゲイ男性が、ピンクハウスに装い、男同士は社会から容認されないことを前提に、少女漫画の技法によって、化粧した少女のような男性ばかりが登場するメロドラマを描き、『泣ける~~』と消費した挙句に、二丁目へ押しかけてゲイ差別した」

これは、ないだろう。

『千夜千冊』で、やおいに関しては松岡正剛でさえも言葉をにごしているのが面白いといえば面白いのだが、ちょっと気になるので書いてみる。

1970年代に高校生だった人は、1980年代には成人する。成人すれば、夜の街へお酒を飲みに行くことができる。新宿二丁目とは、そのような歓楽街だ。

まことに残念ながら、女性が二丁目まで押しかけ、ゲイにつきまとって困らせた・私生活に関する失礼な質問をした、あげくに非難したなどという話は、1980年代から継続的に存在する。

自分の兄弟・息子・親友がゲイで、他人が「ちょっと見物させて!」などと言ってきたら「そっとしておいてあげて」と思うはずだ。

トランスゲイとは男性である。ゲイとは男性である。男性社会の一員として、末永く共同体へ受け入れられたいはずの者が、なぜ同じゲイとしての心が分からず、大先輩たちに無礼を働くのか。

仮に作家は全員が男性で、礼儀をわきまえており、読者は違うとするならば「かつては読者で、やがては作家になった者」と「読んだだけではしゃぐ者」には、なんの違いがあるのか。

仮に男性が自己表現として書き、女性が読むとして、女性は読む必要がないではないか。話が空回りしてしまう。

仮にトランス男性が、幸いにして著作物の中で自らの性自認について告白する機会を得たならば、一般社会に対しては権利の保障を、全国の仲間に対しては大団結を呼びかけるべきであろう。

なぜ、トランスゲイとしての活動が、空想的な官能小説を書くことに限定されているのか。

「じゃあ作家の中に本当のトランスゲイが何人いるか、アンケートを取ってみよう!」という話ではない。「少し考えれば、理屈がおかしいことが分かるでしょ!?」という話だ。情報に接する態度の問題だ。

【大喜利が好きすぎる】

日本人は途中で考えることをやめてしまう。「あ、そーなんだ」で納得してしまう。大喜利が大好きで、「うまいこと言って座布団一枚もらう」ことが生きがいだ。

しかし、客席から質問されることを想定していない。「それはどういう意味ですか?(面白さが分かりません)」というのは野暮とされているからだ。

だから政治家でさえ「昔のイギリスとドイツみたいなもんですよ♪(なんちゃって)」と言ってしまう。が、「なるほどーー。うまい!」とウケてもらえず、「つまり開戦まで持っていくということですね?」と訊き返されると、途端にあわてる。

もし「私達は全員が女性に見えますが実はトランスゲイです」と申し立てて、「つまり即売会参加者数十万人が、精神科医による診察と、性適合手術を望んでいるということですね?」と言われたら?

「そ、そういう意味じゃないです」と言うなら、どんな意味だったのか。

この文章は特定の著述者を非難することを意図していない。ボーイズラブ作家には絶対にトランスゲイ男性が一人もいないとも言わない。

ただ、いまでも時々「じつは、やおいは○○」という説が披露されることがあり、「あ、そーなんだ」と思ってしまう人もいるようなので、一考を促したいと思った次第だ。

性マイノリティの自己実現の困難さが指摘されたならば、人権擁護の観点から、医療者・法律家による助力、政府・自治体による資金援助などの対策が講じられるべきである。

男同士の愛が不毛なのは、マジョリティ社会が同性婚と児童養育を認可しないからである。

「被差別は当たり前なので、間違った性知識に基づくゲイポルノと、ご都合主義のレディコミが混ざったような創作物を制作するのも致し方ないです」というところで収まってしまうのが不適切であるのは、言うまでもない。

一方、やおいを論じる書籍に「哀しみ」が表現されていると感じるなら、それは多くの場合「せっかく書いたものを快く受け入れてもらえず、なぜ? なぜ? と突き回される女性」の挫折感による哀しみである。
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