【食パンくわえたお嬢さんが登場していれば世間は悩まなかった】

  15, 2014 13:02
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谷崎潤一郎の作品に、「私」と称する男性主人公が、あばら屋の外壁のすき間から室内をのぞくと、美女が男を扼殺する場面を目撃してしまった……というのがある。

彼は飛び出していって凶行を防いだりしない。じつは奉行職で、背中の桜がお見通しってこともない。ああ、恐ろしいものを見てしまったと思うばかりだ。

ボーイズラブ作品の冒頭に、食パンをくわえたまま「遅刻、遅刻」と叫ぶ女生徒が登場し、彼女が住宅街の曲がり角でぶつかった相手が美少年で、数十分後にそれが転入生だと判明したが、仔細ありげな様子が気になって、放課後にあとをつけて行くと、物陰で男性のおもちゃにされている姿を目撃してしまった……

彼女は飛び出していって淫行を防いだりしない。じつは学生刑事で、ヨーヨーに秘められた桜の代紋がお見通しってこともない。「うわぁ、すごいもの見ちゃった」と思うばかりだ。

初期の作品で、この構成が取られていれば、世間は悩まなかった。

表現されているものは、女性の怖いもの見たさであり、作品は全体として、ホラーの一種だ。あなたの知らない世界。

寺山修司は、竹宮作品を評して、「少女の内面が表現されている」と言ったそうだけれども、描いたのは成人女性だ。

大人が自分で面白いと思うものを描いて、投下すると、子供が新しい価値観を学ぶ。

彼のような大人の男性から見ると、十六歳の少女も、二十六歳の成人女性も、未婚の一点において「小娘」という同じカテゴリに入ってしまったのかもしれないが、本人たちの意識においては、だいぶ違う。


【あるべき落ち】

この場合、本来の少女漫画らしい落ちをつけるとすれば、やはり少女が少年を救い出し、異性愛カップルとしてのハッピーエンド(異性婚を前提とする交際の開始)となるだろう。

相手の男が怖いので、ただ震えている少女とか、悪事を知りながら逃げる少女というのは、読後感が悪いからだ。

サファイア王子のように活発で正義感あふれる少女が、悪い男をぶん殴り、家庭の不幸などの事情によって「売り物買い物」にされていた少年を、その境遇から救い出して、なに悪かろうか。

もっとも、1975年から『悪魔の花嫁』が連載されており、「女のいやらしさ、卑怯さ」をテーマとすることも、できなくはなかった。

実際に描かれたのは、男子校を舞台として、男装して入学する少女など登場せず、少年が少年を救おうとして失敗する物語だった。


【愛でる】

1960年代から、楳図かずおが少女誌に、少女が「ギャーー」と叫ぶホラー漫画を連載していた。

少女が実の母親の手にかかるという恐怖を、男性作家が描くものならば、少年が実の父親の手にかかるという恐怖を、女性作家が描いて何故いけなかろうか。

楳図の少女たちも、間一髪のところで白馬の王子様に救ってもらえるわけではない。

ジルベールは、成人男性の愛人とされると、その後の精神的な成長を止めてしまったのだから、行われたことは魂の殺人だ。

セルジュは努力したが、すでに死んでいる者を救うことはできない。ジルベールは最初から美しい幻、とむらいを求めて現れた「後ジテ」だったというのが、あの作品の本当の意義だ。

失われた少女とは、どの男のものにもならない純潔な女性だ。これを一部の男性が愛惜することは、あんまり不思議がられない。

早世した少年、さらに自分自身もさんざっぱら傷つけられた挙句に彼を弔い続けて事実上の出家となる少年とは、それ以上「彼に相応しい人生の伴侶となる未成年女性を求めて血眼にならない男性」だ。

それを、職業を優先して結婚を封印した成人女性が愛玩し、愛惜の情をもって描くというのであれば、意味するところは、説くまでもない。

その境地を、少年を「愛でる」などという言葉で表現した論客たちも、その時点ですでに十四・五歳の小娘ではなかった。

そして、そのような境地を表現した漫画も、小説も、それらを論じた書籍も、男性の発行人(出版社の社長)によって上梓された。

すべては、男性の掌の上で、男性社会における現象として生起している。

男性として設定されながら、男性によって最大の恥辱を受ける若者を、止めもせずに見届けようとする大人の女性たち。

それを「商魂」という網ですくい上げ、ベルトコンベアーに載せて瓶詰めし、レッテルを貼る男性たち。

「少女」が見届けたのは、この全体の構図そのものだ。

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