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【アニパロ耽美を生んだ心性に関する推論】

「シャーロック・ホームズを読んだら面白かったので、自分もミステリーを書いてみようと思って、アニメを見てみた」

ドルリー・レーンも面白いよ。

「司馬遼太郎を読んだら面白かったので、自分も時代小説を書いてみようと思って、アニメを見てみた」

図書館へ行くほうが先だ。

「LaLaという少女漫画雑誌を読んだら面白かったので、自分でアニパロを書いた」

どうしてそうなった。


【短絡の展開】

世の中いろんな同人誌がある。俳句、短歌、純文学、推理小説、時代小説なら、そこは「自分の」作品を発表する場所だ。

LaLaを読んで面白かった人は、まず、LaLaを読み続ければ良い。

木原敏江や山岸良子の真似をして、「自分の」漫画を描き、投稿して、プロデビューすれば良い。

竹宮がフランスの中高一貫校、木原がプロイセンに憧れた時代の日本の高校、山岸が古代日本の天才児を描いたのだから、オリジナル作品の構想としては、科挙に合格した古代中国の少年の物語でも良いし、オックスブリッジを目指して勉学にはげむ英国貴族の子弟の話でも良い。

グランド・ツアー時代の北欧貴族の子弟が、遊学中にヴェネチア謝肉祭で出会ったのは、古代ギリシャ彫刻と見まごう美少年だった……

先行する1970年代の作品を、いくつか鑑賞した経験からは、このくらいのプロットが浮かんでくる。

ただし、実際に描くとなれば、当時の建築物や風俗に関する詳細な知識が要る。わずか16ページの投稿作品を仕上げるために、膨大な量の読書が必要となるだろう。

ことによると、実際の騎乗体験、テーブルマナー講習の受講なども必要になるかもしれない。

なぜ、自分でそれを試みる前に、存在感のあやしいアニメ二次創作に手をつけ、その模倣に手を染めたのか。

……手軽だったからだ。

短絡の行間を展開すれば、こうだ。

「LaLaという少女漫画雑誌を読んだら、一部に少年趣味の漫画が掲載されており、自分の好みに合うと思ったので、ほかにも似たような作品を読んでみたいと思ったが、近所の書店(ネットはなかった時代)には、少なかった。

 同人誌即売会というところへ行くと手に入るよと教わったので、友人の案内で行ってみた。そこで入手したものが、アニメを題材にしたパロディ作品で、面白かったのと、かんたんだよと言われたので、『自分の』パロディを書いてみた」

以上。

では、なぜそこには「すでに」アニパロ耽美が存在したのか。


【源流に関する推論】

猿楽に曲舞を導入したのは観阿弥。これは文献で確認できる。これには、すでに曲舞というものを演じていた人々の存在が前提となる。

組み合わせというアイディアを現実化し、時宜を得て発表することのできた人の背景には、似たようなことを考えていた人の何人か、存在するものだ。

例え、思いつきだけで終わってしまったとしても。やってみたけど下手だったとしても。

猿楽能と曲舞の両方に詳しかった人は当時も少なかっただろうが、漫画とアニメの視聴者なら、数万・数十万オーダーだ。

これは、アニメに関する二次的作品の発表を可能にした心性、その数万人の間で高まっていた機運のようなものに関する推論である。

遅くとも戦後すぐの時期に、三島由紀夫作品を読んだ経験からは、女性が真似して書いてみるという挑戦が生じ得た。1960年代に森茉莉作品が受賞した後は、その作品を読んでみようという意欲、私も書いてみようという意欲が増大し、裾野を広げただろう。

耽美と呼ばれた物語へ、アニメの登場人物を導入したのは、誰だったろうか。

最初期にSFアニメの登場人物を題材として執筆を試みた人は、特殊な分野であることを自覚しており、物議をかもさずに発表できる場があるとは思っていなかった。

つまり、その時点で同人誌即売会の存在を知らなかったことになる。では、それは1975年よりも前の時点だ。

ネットのなかった時代だから、たんに地方在住、または漫画サークルなどに属していない個人の身分で、情報を得ていなかっただけかもしれないが、であれば、即売会で入手したものを読んで真似したのではなく、自分から思いついたことになる。

その時点で、営利目的はあり得ない。

おそらく、最初期に誰かの脳裏に去来した構想は、発表されていないままだ。

参考となる先行作品が、いまだ目に見える形で存在しない時代に、似たようなことを考えていた人々は、アニメが大嫌いな人々だったろうか。

当時、アニメはテレビまんがと呼ばれ、幼稚園児の見るものだと思われていた。それを、成人女性をデートに誘うに当たって、見に行きましょうと言えば、先方が怒り出す可能性さえあった。

そのような時期に、わざわざ視聴して、彼の物語を書いてみたいと思った人は、純粋なアニメファン、少なくともアニメキャラファンだ。

1870年代のSFアニメに登場した男性たちは、ジルベール風の「萌やしっ子」ではなかった。いま少し逞しく、高い戦闘能力を誇る、頼もしい若者たちだ。

だから彼らは、ジルベールの代わりではない。

(※ 豆から芽を生じさせて食用とするモヤシって、萌やしと書くのだ)


【コミケの伏流】

1980年代初頭、個人的な経験だが、小学生同士は「おとなになってもアニメを見る人を、オタクって言うんだって」と恐ろしげに囁き合っていた。

1975年から1981年は、「コミケ」創立者による漫画評論の執筆活動がもっとも輝いていた奇跡の6年間と称されるが、どう考えてもその裏で、アニメ評論(の一種)が成長している。

ことに、ちょうど同時期に盛んに放映されていたSFアニメ(合体ロボットアニメ)に登場する美青年キャラクターによるパロディ作品の執筆活動が急成長している。

よくよく考えると、漫画がもっとも注目されたのは、有名な詩人によって、その登場人物の弔辞が読まれた時であったろう。

自主的に成し遂げられた評論活動には敬意を表するが、もしかしたら、1975年というのは、漫画を語る時期としては、すでに遅かったのかもしれない。

漫画市場で「小説」が売られているという奇妙な事態を問い直す人は、1980年代当時、すでに存在しなかった。

娯楽を選ぶ基準が「手軽」であること自体は、1980年代の若者における消費行動の傾向として一般化できるだろう。この時期にアニメオタク以外の若者の積極的な入門によって、クラシック音楽や伝統芸能・書道・油彩画などがますます盛んになったということは、残念ながら、ないからだ。

1980年代に将来ある少年少女だった者は、1970年前後の生まれで、ひじょうに人数が多いが、彼らの積極的な投資によって、学術書と思想全集の売上がうなぎ昇りだったことも、ないからだ。

1980年代に限った話ではなく、もっと前、テレビ放映された警察官の真似をして、歩きながらカップ麺を食うようになった頃からだろうか。


【文化祭の時代】

バリケードが破られ、シラケムードが広まった後に来たのが、即売会という文化祭の時代だ。

もうバリケードは築かない。鉄パイプも握らない。

代わりに、忍耐強い行列を作る。それ自体が迂闊な参加者を拒む関所となっているが、上流社会へ向かって一斉に火炎瓶を投げるわけではない。

別にテレビ取材によって心外なことを言われたから、その後はおとなしくしているという訳ではなく、当時すでに行列していた。

「下品な漫画は、おやめ遊ばせ」と勧告されても、「お前らこそ上品ぶった美術館を閉鎖しろ」とは言い返さない。政治家の誘拐・ハイジャックも画策しない。

ハイアート・上流社会に対して距離を置き、非暴力・不服従の精神と、自治を尊ぶ。

平和憲法と、義務教育の普及を前提とした、終わらない文化祭・永遠の放課後活動だ。

そして、そこは共学だ。

が、そこにおいて取引された作品の一部を「男性は読んではいけません」という人々があったのなら、女性だけで「アニパロ・マーケット」を立ち上げてみてもよかった。

「今まで男性は女性のイメージを利用して散々好き勝手なことを描いてきたのですから、女性が男性作品を利用して好き勝手なことを描くのを認めなければなりません」

1980年代には真顔でそんな理屈が言われたものだ。

それを振りかざして、独自組織として、どのような強圧にも抵抗していくという道もあり得た。

が、日本の女性(の一部)は、そのように動かなかった。また、男性も集団暴力による強制排除という手段を取らなかった。

その代わり、何もかもが女性に都合よく運ぶようになったわけでもなく、相変わらず「俺は男だから」「どうせ女だから」と、性マイノリティを無視して線を引き、それをはさんで小競り合いが繰り返される。

戦後日本型民主主義と、日本型男女共同参画は、1970年代後半、「漫画」の共同研究を意図したとされる場所の軒先で、自主制作アニメの初上映でさえなく、「既成アニメ作品のパロディ漫画」と「小説」が展示されるという奇妙な現象が、黙認という解決を見たときに完成され、その後あんまり変わっていないような気がする。

中産階級出身で、そこそこ学歴のある若者による小社会が、中産階級出身で、そこそこ学歴のある人々が多数を占める一般社会の縮図であるのは、当然ではある。


【よく考えると、アニメの前提には漫画がある】

原作ファンのためにタイトルは挙げないが、現代にまで通じる美青年趣味を満足させる漫画は、古くから存在した。

海外では、日本の少女漫画の洗礼を受けずして、テレビドラマから男性同士のロマンスを発想した(=中年俳優をイメージモデルとした)心強い女性がいた。

日本でも、少女漫画のファンではない人が、直接に男性向け漫画から発想することが、あり得ないとは言い切れない。

ナイル河の源流も、大きな一つの湖なのか、小さな複数の源泉なのか、議論となった。

純文学・少なくとも大衆文芸を源流に、漫画の二次創作としての耽美作品が、素人の間に隠密裏に存在したところで、その漫画のアニメ化というスイッチの切り替えによって、漫画からアニメへの人口移動が起こり、「アニメから二次作品」というアイディアが生じ、それがプロという貯水池に流れ込んで、彼女自身の奥底から湧き上がる少年趣味という源泉と合流し、男性編集者の商売勘によって、低年齢という下流へ向かって放流され、1980年代に至って、少年趣味に合致するアニメ作品が見出されて後の河口付近は限りなく広い。

という系統図を、仮に描いておいてみる。

……原宿の一部で売れていた飲料を、パック詰めにして全国のコンビニで売るみたいなものだ。そして、味を覚えた子供が原宿へ押しかけて、勝手に売り子になったみたいなものだ……

ナイル河の源泉は巨大なタンガニーカ湖だったが、こっちは誰か一人の巨大な湖というよりも、小さな源泉がいろいろなところから湧き上がったと考えるほうが適切なような気がする。

本来、同人活動とは、個人の自由な発想を世に問う手段であり、民主主義の象徴であるはずだからだ。




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Misha

Author:Misha
スマホ時代にさからう評論系長文ブログ。冷静に通読できる大人の読者様を想定しています。

「若い人」に直接呼びかける文章は、18歳以上のヤングアダルト対象です。高校生は受験を最優先してください。

書く人は、新旧とりまぜて映画とアニメを見ながら文芸書に取りくんでみたり、昔の漫画を思い出したり、お国の先行きを心配したりしております。

記事中の色つき文字は、映画中の台詞・挿入歌からの引用です。あらすじは、あまり申しませんので、楽しみに御覧ください。取り上げる作品は、暴力・エロスなど特殊な要素を含んでいることもあります。

ときおり、耽美・BL・同人・LGBTに言及します。いずれの分野からも、偏見と差別と自虐がなくなるといいと思っております。

「二次創作の責任を二十四年組に押しつけるな」「実在同性愛者に甘えるな」が基調です。

全体として、二十四年組ファンが社会学者に物申すという珍しい構図。一部勘違い同人を叱責することによって全体を守るという意図もあり、ときにかなり辛口です。

記事は時々予告なく手直し・削除・分割しております。保存は個人的閲覧の範囲で、お早めに御随意に。転載・改変利用は固くお断り申し上げます。

解題


Casketとは、玉手箱。

でも検索すると棺桶がならびます。来世まで持っていきたい好きな作品の記録帳とご理解ください。