【皮肉でもなんでもなく】

  17, 2014 10:52
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たとえば西村寿行の『峠に棲む鬼』は、叙述の半分が女性主人公の目線からだ。

西村は男性でも女性でもなく、両性者だったのか。

女性作家が男性キャラクターの視点から女性への愛情を描けば、「この作家は男性になって女性を抱きたがっている。レズビアンだ」と指摘するべきか。

もし、ボーイズラブが明確に男性社会への皮肉を意図していた(という説もあった)ならば、それは男性が主宰する社会学研究会の機関紙へ、一種の爆弾として投稿され、フェミニズムの講演会で朗読され、新聞取材を受け、ひろく世間に問い、一考を促すべきものだった。

憎い相手に「いや、一本とられた」と言わせないことには、皮肉が皮肉として成り立たないからだ。

つまり、そうじゃなくて……

「人生いかに生くべきか」という純文学的問いかけではなく、娯楽作品、なかんずく性愛的関心に基づいて描かれた作品の手法とは、「対象」の魅力を絵に描くか、カメラで撮影するように描き出すものであって、かならずしも主人公=作者・読者ではないってことを、世間知らずと思われていた若い女性が正しくつかみ出した、ということじゃなかったか。

その認識に基づいて、自分(たち)の楽しみのために、好色文芸を描いただけだ。

それは、あくまで同好者の間でひそかに交換されるものであって、たとえば刺青や緊縛の写真が手渡しでやり取りされていたのと同じだ。

肉筆回覧時代はもちろん、製本されるようになってからも、対面の手売り販売だったんだから。

交換市場の成立と成熟が認識される前の時点で、営利目的という創作動機はあり得ない。

大学ノートに手書きした文章を同級生に回覧して「一回千円」とは言うまい。(いやな奴だ)

創作の前提になるのは読み書きの能力だ。スポーツに夢中で漢字は苦手という女性が、とつぜん腰をすえて執筆活動に入ることはない。(昔はワープロもケータイもなかったんだ)

学業成績がよく、家庭の事情が許せば進学することのできた女性の一部が、忌憚のない自己表現を欲したというだけだ。




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