【ありのままに引きこもりを否定。~FROZEN鑑賞記】

  18, 2014 10:37
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「ありのままに生きれば、みんな分かってくれるから、やりたくなったらやっちゃいな」という話ではない。

「ありのままに生きようとすれば、大事な人を傷つけてしまう。では、引きこもるべきか」という究極の問いを発している。

答えは、「あなたは変わることができる、と励ましてくれるパートナーが必要だ」

一人より二人。

たとえば未経験な素人だった者が、自分の心のままに踊れば、頑固な審査員(教員)も思わず乗りのりになってしまう。

運動競技中にも歌謡曲を流して、自分のタイミングで蹴れば、得点できる。

そういうのは『glee』がやっちゃった訳で、アメリカは次の段階に入った。

自分の持って生まれた才能を発揮しても、ネガティブな心を抱えていては、他人を傷つける。

たとえば体格に優れた子供がいじめっ子になったり、鋭い洞察力を持て余して、ネットへ他人の中傷ばかり書き込む人になったり。

世のため、人のため、みんなに喜んでもらえる方向に、才能を正しく発揮するためには、過去のあやまちを許し、未来を信じ、変化を促す「心の友」が必要だ。

アナの側から見ると、「自分一人が生かされるよりも、大事な人を生かすために自分を投げ出すほうが良い」

前向きな共依存が、春を呼ぶ。

これは、犯罪歴のある若者・誤解されやすい若者と、それへ対する一般人のすべてへ向けた、壮大なメッセージである。

また、物議を醸さないギリギリの線上における、LGBTへの応援でもある。

いま、もっとも「ありのままの自分として、パートナーとともに生きられる社会」を求めているのは彼(女)らだ。

昨年来、世界各地で同性婚を容認する法案の通過が相次いだ。一方で、悲惨な反動ヘイトクライムも相次いだ。

アメリカの良心代表でありたいディズニーが、「愛も勇気も、性マジョリティだけのもの。LGBTに生まれついた若者は、悩んだままでいればいいよ」とは言うまい。

ディズニーは、果敢な一歩を踏み出した。

かの国は、19世紀に大陸で食いつめた移民と、20世紀の亡命者による国でもあって、まさに『シンドラーのリスト』の最終場面のように、サバイバー同士が隣の者と手をつないで前へ進む構図に、最高の価値を置く。

その裏を、ちょっとめくってみると、幼女と男装の麗人の次はダブルヒロインで、しかも「手から光線」なわけで、日本人としては「やってくれる」と舌打ちのひとつもする他ない。

日本製アニメをうっかり海外公開すると、いいとこ取りされて終わる。

しかも、手から出た光線が人体を直撃することはなく、流血沙汰は起きない。世界で支持を得るために何を取捨選択すべきか、お手本を見せられているかのようだ。

観客の自己愛または客体愛を刺激して、興行収入に結びつける商魂に、臆面もなく「人生万歳」というテーマを乗せることのできる逞しさが三枚くらい上手なんだから仕方がない。

移民の国であるアメリカの根っこには、やっぱり欧州文化があって、そこにはやっぱりルネサンスの人間主義があり、白人文化の誇りがある。

男たちは「自分にできること」に自信があり、あるいは金槌をふるい、あるいは橇を飛ばす。

女の子たちが愛(異性)に憧れ、そのわりに変化を恐れるのは、思春期の女性描写として定番だが、彼女たちは恐れたままではいない。

悪としての異性の存在を知り、怯えて終わらず、そいつに顔面パンチを喰らわせる。

「彼女」のために頑張った女の子にとって、信頼のおける異性との接吻は、ついに「ほんのごほうび」のようなものとなった。それを得るために、友を裏切り、自分をいつわる必要はない。

仕事のできる男と、「女」の殻を打ち破る少女。

保守とネットに傾く社会が喝采して迎えたのは、旧世界と引きこもりからの、二重の脱却だ。

テーマは、単純なようで複雑であり、しかも見えやすく整理されている。

絵の美しさと演出の巧みさについては、すでに世界中のCGアニメ作家の奥歯が磨耗しきったところだろうから、もう言わない。


【シリーズ化すると、テーマがぼやける】

必要最低限の登場人物が、それぞれにテーマを背負って的確に動くことができるのは、シリーズ化されていないからだ。

シリーズ化すると主要キャラクター達は「次」があるので冒険の渦中の人物とならない。

映画の各回ごとに、ゲストキャラクターが登場し、人生の大変化というドラマを背負うのは彼(女)となり、主役のはずのシリーズキャラクターは傍観者となる。

しまいに「観客は、本当は知ってるキャラさえ出てくれば、人生のテーマなんかどうでもいいんだよ」という見切りが行われたのが「最近」の日本製アニメ映画・および漫画原作映画で、これはまァ娯楽作品のひとつのあり方として間違ってはいない。

たぶん、アメリカ国内を詳細に見れば、「だめだこりゃ」な作品も一杯ある。

今回は、ラセターと駿のダブル受賞というか、親子受賞というか、そんな意味もあるわけで、例えて言うなら「アニメ界のノーベル賞」というか、トップ中のトップ達が精鋭職人集団を率いて存分に活躍したという話で、誰でも真似できることじゃない。

彼らにしたって「やって来て良かった」というところだろう。誰でも到達できる境地ではない。

だから、ファン狙いのコピーのコピーのコピー作品だって、作家・職人の修行場所として、観客の選択肢として、充分に与えられて良いのだ。

が、明らかに「ファンのみを狙っている」という内向性を持っているわけで、ファンの年齢が上がれば店じまいという、「独立したナンバーワン・ホステスの店」みたいな宿命を持っている……

アイドル歌手も10代~20代で消費され、その後はおばさん扱いされて消えていく他ない。

ついでのようだが、家電製品の部品の保存期間も短い。

なぜかこの国では、商品寿命は10年くらいで良いことになっている。


【この国にはミュージカルの元祖がある】

アナとエルサが歌い出すタイミングが「歌舞伎じゃなくて能楽だな」と思った。

2004年映画版『オペラ座の怪人』が「現在」から説き起こす額縁構造を持っていたが、あれもこの国では600年前に達成されている。

オラフのようなコミックリリーフは、アイ狂言にあたるんだけれども、日本製アニメはあのようなキャラクターの扱い方も下手だ。

脚本術としての能楽は、もっと勉強されて良い。



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