【悪魔の花嫁と妖子は第一話で終わっている。】

  29, 2014 20:53
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旧来型ディズニープリンセス式の「男を信じて待つ女は、必ず救われる」という物語に対して、「信じても無駄。あいつら美人に弱いから、必ず裏切る」と言ってのけたまでは良かったんだけれども、それなら女同士でなんとかしようというふうに前向きに展開して行かないから、話の続けようがない。

ヴィーナスは海の泡から生まれたのが本来の伝説だから、例えば海の精霊が同情して手助けしてくれた、なんて話でもいい。キルケー、ハーピー、ゴルゴーンなど、味方になってくれそうな女怪なら幾つか思いつく。

彼女自身が怨霊となって、六条の御息所のように美奈子へ取りついてしまったっていい。少女が骸になってしまえば、兄貴もそれを担いでくる他ない。

時々人間界へ散歩に出てくるわりには、それほどの霊力は残されていないことになっている。

美奈子のほうでも、悪魔学を勉強して、デイモスを操るとか、エクソシストを連れてきて闘うとかしてもいいのに、そういう方向へ展開していかない。

成績も優秀そうだし、家庭も裕福そうで、外国語の書籍一冊買えないってこともなさそうだけど、彼女は自分からは何もできないことになっている。

「男も女も無力ね。可哀想ね」というのが物語の意味で、オイルショックの時代に相応しいと言えば言える。

「こうして恐怖と絶望が、この世に誕生しました。どっとはらい」で落ちがついている。

ここからは短編集になってしまうわけで、市井の女性たちが自らの欲望に苦しむ姿を見定める美男は、叙述における「神の視点」の象徴で、作家の視点でもあり、読者の視点でもある。彼は、いつも、ちょっと高い所にいる。

彼は、自由なはずの翼ある者であり、同時に忌みきらわれるカラスでもある。

女性が「社会進出」するにあたって、男性の目線で女性を観察し、うがったことを言う。が、愛されない。感謝もされない。

女性のダメさ加減を提示するだけで、改善へ向けて「あなたならできる」と励ましたり、「真実の愛の力で、ずっとそばにいるよ」などと協力するわけではない存在は、忌みきらわれる黒衣の者である。

美少年物語とは、同時に生まれた兄弟(姉妹?)のような関係だ。

後者は、美少年を愛玩(悪戯)する存在として、作家のリアリティを表現した成人女性ではなく、作家自身と同じ年頃の美男を登場させたものだ。

明治時代の文豪は、たとえば一高出身の作家であるとか、教員であるとか、自分自身を作中に登場させることを躊躇わなかった。

よくも悪くも自分だけを恃みに書くことができた彼らとは違って、すでに少女とは言えない年齢に達しながら、職業的な要請によって年下の女性を主人公に描き続けてきた漫画作家にとっては、同世代の異性を描くことも、じつはそんなに違和感のないことだったのかもしれない。

男性の仮面をつけて、美少年を眺めると、女性の身では思いもつかなかった、彼の「利用方法」が見えてくる。

これはゲイ差別というより、男性一般に対して失礼なんだけれども、それが女性の自立心の表現であるから許されたい……こういう理屈だった。

妖子のほうは、少し時代が下っているから、もう少し話が明るい。

どこが!? と言われそうだが、女性が自分の力で危険を切り抜けるのだから、充分に明るい。

「こうして賢い妖子は機転を利かしてピンチをくぐり抜け、生まれ育った伯爵家に居座り続けました。めでたしめでたし」

これも第一回で終わっている。

たぶん、連載に向かない才能を持った作家がいるんだけれども、ヤマザキマリ氏が言ったことを信じるなら、日本では作家が連載させられる。


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