【異性好みの同性同士】

  23, 2014 00:19
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「女性好みに調整された男同士の人間関係」を引っくり返すと、「女同士の人間関係において、男性好みの闘争心が表現されている」というものになるはずだ。

じつは、これは「嫁姑バトル」「後妻打ち」「女子プロレス」「女性アイドル夏の大運動会(ビキニ水着で騎馬戦)」などとして、結構に表現され、消費されてきたんである。

(一部のゲイは、女性同士のつかみ合いの喧嘩の見物をお好みになるそうだ)

健康的な表現としては、女子スポーツだが、その訓練課程において男性自身の闘争心・権力志向が表現され過ぎたのが、柔道界における人権問題だった。

だから、ここで話を戻せば、衆道の文脈において女性性を表現するという特殊技法も、女性の自尊心によって現実の男性の人権を傷つけない範囲において、当初から娯楽を目的としていることを断った上で、表現が許される、という理屈になるだろう。

(そもそもどちらも表現すべきでない、という提言は、表現したいという人との「自由」をめぐる真っ向勝負となる)

女性の自尊心によって現実の男性の人権を傷つける事例は、もちろん、ゲイ男性に向かって「あなたの顔は私たちが好む漫画よりも可愛くない」などと言ってしまうことだ。言葉の暴力は、“立派な”暴力であり、人権侵害である。

娯楽を目的として、決して真似してはいけないことを前提に、女同士が言葉の暴力で互いを傷つけあったり、策略を弄して陥れ合ったり、つかみ合いの喧嘩を演じたり、少年に一服盛って犯したり、成人男子を誘拐・緊縛・調教したり、何もかも忘れたようにラブラブになってしまったりする姿が描かれるわけだが、それを読んだだけで不愉快に感じる人がいるのも、また当然である。

だからと言って、自分が読んでも不快ではないものだけを描け、と他人に命令することはできるか。

女性に向かって「女なら男が演出した女の話を読め。母娘バトルを読みたがらない・描きたがらない女性は、女性としての自認がない」というのであれば、男性に向かって「男なら女が描いた男の話を読め。男性が男性に調教される話を読みたがらない・描きたがらない男性は、男性としての自認がない」と言い返すことも可能だ。

「たとえば男性が監督したものであっても、嫁姑や、正妻と愛人の確執などのような女性同士のドラマは、女性も面白がって鑑賞しているから良いではないか。逆にBLは全ての男性にとって不愉快だから、全て取り下げろ」という理屈は通るだろうか。

本当に全ての女性が、いじわるな女性と哀れな女性の物語を歓迎しているだろうか。

ディズニー・ヴィランの中には(ある意味で)魅力的な女性キャラクターが大勢いるんだけれども、彼女たちが登場した作品よりも、悪役としての女性が登場しない作品のほうが優勢となる現象が、現在ただいまも進行中である。(2014年7月末)

男性が性的弱者とされる物語において女性の嗜好が表現される技法は、その逆の表現が優勢な中で、ひそかに開発され、受け継がれ、ある時期に一部だけが商業的に発表を許されたものの、ふたたび伏流となって、現在に至る。

これからは、ついに逆転が起こるのではなく、どちらも伏流となる。

主流となるのは、もちろん、誰もが「ありのまま」に幸せである話だ。


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