【星新一の手塚治虫評から二次創作へ話をつなげる試み。】

  04, 2014 20:00
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「星は手塚作品の特徴を『構成のしっかりしている点にある。(中略)つまり、手塚さんが活字によって小説作法を完全に自分のものとし、それを漫画のなかに展開しているからではないだろうか』と評し、手塚漫画に文学性をみていた。」

 (2014年8月29日付 静岡新聞夕刊『日本SF展・SFの国』紹介記事より孫引き)

この「文学性」を、ひらたく言うと「山も落ちも意味もある」ってことになるのでしょう。

『フクちゃん』の原作者が、「若い(漫画家志望の)人が自分の後ろについて来ていると思っていたら、誰もいなくて、隣の山に手塚治虫という大将がいた」と言っていた。

でも新聞紙上の四コマ漫画は続いている。サザエさんも、すたれてはいない。『クレヨンしんちゃん』は、この路線上にいると思う。

日本の漫画には、いくつかの流派のようなものがある。

「手塚流」というのが、じつは眼が縦方向に大きく、頬のふくよかな少年少女を描いている点で、現代の「萌え」アニメまで真っ直ぐにつながっていると思う。

その分派である石ノ森流の高弟だった竹宮恵子の作品には、立派な山も落ちもあった。大作『地球へ…』を、誰も「SFを理解していない」とは言わないだろうと思う。

『風と木の詩』は文学だ、という言い方も、文学性がある・文学をしっかり理解した上で書いているという誉め言葉であって、文学に対して後発の漫画という分野が、先輩格と比べられて「よく成長したね」と認められている。

(べつに「漫画じゃなくて文学だ」と漫画を否定しているわけではないから、怒るのは筋違い。)

1970年代と、1980年代の境目ごろから、一部の女性の間から目立ってきたとされる奇矯な漫画群は、みずから「山も落ちもない」と称したそうだけれども、これは流儀の家元の言葉に逆らったという意味になる。

そう考えると、これは単なる自嘲ではなく、独立宣言ととらえるのがいいと思う。

「神と仏が人間界へ降りてきて、共同生活をしながら、人間世界の実情を紹介していく」

……どんな痛烈なSFかと思うと、のんびりしたブログみたいな作品。

そういうものが生まれてきた下地をさかのぼれば、「山も落ちもなくても、えらい男の人が評価してくれなくても、自分が面白いと思い、同性の友達が喜んでくれるものを自由に描きたい」という心性があっただろう。

むしろ、これこそ批判精神の表れではなかったか。


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