【同人は寄らば大樹の陰。】

  12, 2014 21:00
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竹宮や萩尾は、当時の世間の常識にさからって結婚しないまま漫画を描き続ける自分自身の矜持と共感をもって、「周囲の無理解に悩み、人生を搾取され、つぶされていく子供たち」を設定し、表現することができた。

これに対して、「そんなにまじめにテーマを設定しても仕方ないでしょ」という態度を取ったのが、いわゆる同人たちだ。

誰が言ったというんじゃなく、生まれてきた創作物が帯びている質がそういうものであるという話だ。

違いはどこにあるのか。

二十四年組以前にも、熱心にロマン派を読みこなし、三島に心酔し、自作をものした女性がいたとして、尋常小学校以上へ進んでいない農婦であるわけはないし、育児と自営業の手伝いに忙しい若い主婦とも思いにくい。

戦後最初に婦人の参政が許されたときの選挙では、自分の名前も書けない人も多かったそうだ。

いっぽうで、青鞜派など、たしかに優れた文筆家である女性も戦前から存在した。とは言え、政治活動家や高級官僚が妖しい小説を書いていたという話も少ない。第一、忙しかっただろう。

というわけで、ひらたく言うと、文芸を趣味とした女性は、大学生だったろう。

1980年代に入ると、同人漫画・小説の消費者が若年化したことは、つとに指摘されている。

竹宮作品がきっかけとするなら、1976年に高校生だった人は、1980年代初頭には大学生だ。

……多くの大学生が、保護者の支援を受けて進学・上京していただろう。お父さんのお金で学費と下宿費を支払ってもらっていただろう。

「男性横暴!」と唱えても、その庇護下にいるのでは説得力が低い。

男性中心社会を否定しているのか、温存を図っているのか、一見すると分かりにくいとされたが、答えは「両方」だ。

そこで生きる他ないが、腹の虫のおさまりどころが悪いという、二律背反を飲み込んでいる。

「怒っても仕方がないから飲みましょう」というような、ストレス解消用途の娯楽作品に特化する志向を見せる。

男の美学、男のロマンはうらやましいが、取って代わることを女のロマンとするのではなく……

もともと、漫画というのは、例えば仮面ライダーやデビルマンなど、他人に利用されたり、誤解されたりする悲劇的な人物を描き、彼らの怒りと悲しみに読者が共感することを意図するが、だからと言って読者である若者に実際の革命や暴動を推奨するものではない。

ばっさり言ってしまえば、若者の社会に対する不満・ルサンチマンが、作家の飯の種となっている。逆に言うと、ユートピアが実現されてしまうと、反骨精神を刺激剤とする物語も生まれてこなくなる。多くの若者にとっても、そのことが了解済みで、読めば終わりだ。

漫画は、革命を扇動せず、漫画として自閉している。

それを分析しても、本当はこの子たちはどうしたいのかといったことは見えてこない。

強迫症は、コンプレックスを解消すると、症状が消滅するかもしれない。

が、たとえば目出度く女性中心社会になったからと言って、ボーイズラブ消費・美的(と女性の眼が感じる)ゲイ映画の消費が消失するかというと……?


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