【少年は愛に生き、男は愛に死す。】

  16, 2014 22:00
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戦前のロマン主義、耽美主義、三島由紀夫、丸山明宏、森茉莉、薔薇の葬列。目ぼしいところで。

丸山明宏が性志向を明言した後は人気が陰ったとはいうんだけれども、その後も「でもそういう世界って興味がある。ちょっと見てみたい」という意識が残ったはずで、そうでないと『薔薇の葬列』の公開が起きない。

あの時点で「同性愛に関する表現を禁止する」という法律ができていれば、その後の展開はなかったんだけれども、もちろん表現は自由なほうがいい。

1971年には、ビョルン・アンドレセンがお目見えする。翌年には「ビョルンみたいな金髪の美少年みたいな女の子」を主人公の一人とする漫画の連載が開始される。

じつは『ベルばら』の連載中に「もし映画化するならビョルンみたいな美少年がオスカルを演じればいい」というファンの声があったらしい。

言ったのは、たぶん女性ファンだっただろうけれども、彼女の中では、美少年への憧れとオスカル嬢への憧れが重ね合わされてしまっている。

それに対して原作者が「オスカルが女性として目覚める展開が重要なので、少年には演じきれない」と応えたインタビュー記事があった。が、すでに1960年代に「女性のように男性との愛に生きる少年」という要素が、発表されていたわけ。

少年には当然お相手がいるわけで、それに憧れた女性がいたとすれば、彼女の中で紡がれた言葉は「まァ、いやらしい。女性を裏切り、子供に手を出す変態よ」ではなく……

「彼は、私の代わりに美少年と結ばれるスーパーヒーローよ」ってことだったろう。男性が、金髪美女を侍らせ放題の007をヒーローと崇めるように。

いや、むしろその敵役が近いかな。

この「本来は悪役であるはずの、未成年者に手を出す男」への憧れが描かれているところが、他人をして理解に苦しむと思わしめるのだ。

翌年には女子パワーテニス漫画の連載が始まり、テニス人口が増える。一方で、ボクシング漫画に夢中になっていた男性たちは、革命運動を迷走させていた。女性も重要な役割を演じたけれども、やっぱり男性闘士のほうが多かった。その行き着いた果ては……

機動隊員の真似をして、歩きながらカップ麺を食う若い女性の姿だった……

ただし、この頃にはまだ女性の購買力がものすごく高まったというふうには認識されていない。お勤めを開始するには早いほど若い(=大学生以下)の女性が、公害とオイルショックにもめげず、なんか妙に元気だという印象だったろう。

男たちが何をしたらいいのか分からなくなってしまった頃、男のロマンを謳い上げるテレビまんがの放映が始まった。男子学生の一部が夢中になった。これに対して一部の女性が「はッ、なにが男のロマンよ。それならこっちは女のロマンよ。ビョルンよ」って言った。たぶん。

そして男性主宰者によって始められたばかりの「漫画市場」が、あっという間に自称アニメファン女性による耽美主義まがいのパロディ活動にジャックされた……

と考えると、どうもその後の展開との整合性がよろしいようだ。

青池は「女装の男なんて笑っちゃうけど、皆けっこう好きだよね」と言った。竹宮は「少年愛の実態なんて良いもんじゃないでしょ」と言った。

個人的には、二十四年組なかんずく竹宮恵子に非難が集中するのを防ぎたい。もっと長い前史と、裾野の広がりを想定したい。

三島や森茉莉の読者なら、戦前の生まれだ。映画から発想する人がいるものならば、受け継がれる内には、アニメから発想する人が同時多発的に生まれてもおかしくはない。

「アニメ」であることの意味は、「テレビを通じて、書籍代を支払わなくても、同時に多くの人が視聴できる」ことだ。

1970年代前半までの耽美趣味と、1975年頃以降のアニメ派の決定的な違いは、「ロマン派を読みこなす」という自負・位取りの高さのようなものに比べて、自嘲を含めたブラックジョークの気配があることだ。これがアニメそのものの「お手軽感・いまいち情けない感」に呼応していると思えば納得もいく。

なぜ、この時点で男性同人が女性同人の活動を禁止しなかったのか。これも、テレビまんがとしてのSFそのものが、あまり誉められたものではなかったことに一因があるだろう。本格SF小説のドライさに比べれば、テレビまんがは泥臭い勧善懲悪劇だった。

中には「ワープの可能性を計算した」という実証派もいただろうけれども、「まじめに考えても仕方ないからネタにする」という派もいただろう。

事実は、女性の活動に男性のほうが調子を合わせた・男性のほうが少女漫画みたいな絵を描くようになり、台詞回しまで真似るようになったという結果のようだ。

この点では、男性が二十四年組への尊敬を抱いたことが預かって力があったのかもしれない。逆に女性が、ちばてつや・永井豪みたいな絵を描くことは、ついに起きなかった。

1980年代に入ってから同人漫画界に参加した子供たちは、先輩の真似をしただけだ。なぜ男同士なのか、そのテーマは女性である自分にとってどんな意味を持つのか、誰も問い返さなかった。

学者たちにも分からなかったから、攻めだの受けだの表面的な要素をあげつらった。

はるか数十年前に「金持ちの念者と、可愛い念弟」とう原型が与えられたから、それをアニメキャラクターに演じさせるに当たって、誰をどちらに割り振ってもよい。アニメに興味のない人にとっては、本当にどうでもよい。

こだわるのは「自分の好きなキャラクターを中心に据えたい」と思う熱心なファンだけだ。

本義が失われたからこそ、自由な自己表現の場となる。

「一国一城の主たる男性が見境を失くし、命を落とすほどの美少年」というモチーフに、女性自身の「テレビキャラクターという手の届かない相手を好きになってしまった」という心理が重ね合わされる。

原作アニメ中では主人公に比して地味な存在だった人物が、彼女の手で光輝を与えられる。彼女が選定した念者役が、少年役を絶賛し、命を投げ出しても惜しくないと宣言することによって。

最初は「やばい」などと笑いながら参加したのが、しだいに恋愛心理描写の深刻度を増していく。

高河ゆん達は、ギャグとしてのエロ漫画作家としては認識されていない。編集者を唸らせるほどの力量の持ち主として、長編の連載を担当した。

「崩れ」は、いつも後から参加した人によって起きる。

1970年代のプロには「少年愛を描く意味」に関して自省があった。

1980年代には「ロマンチックな悲劇」という予定調和が重視される。

1990年代に入ると「もっとエロく描け。俺が売ってやる」という態度が現れる。

平和な時代には、かえって悲劇が好まれる。能も歌舞伎も、盛んになったのは戦乱のない時代だ。

不況になると、出版社が首の皮一枚つなぐに、ポルノが頼みの綱とされる。

わりと当たり前に進展して来ているので、難しく考える必要はない。

BL女性は「通」だから、いかにも彼女たちが好みそうなキャラクター・展開には食いつかないというのも、ずいぶん前から嘘だ。1970年代以来、金髪または目の大きな可愛い顔した男性キャラクターは大人気だ。

1990年代に表面化した、ギャグとしてのボーイズラブという表現が飽和に達したから、最近おもしろくなくなったと言われる。

これからの課題があり得るとしたら、アニメの高度化に呼応して、真顔でゲイの人権・自己実現を訴えるBLが生まれるかどうかというところだろう。

(※ たぶん『なに食べ』が挑戦している。)



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