【BL女子の自虐は、男女の共同作業。】

  16, 2014 11:28
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コミックマーケットは、字義通りに受けとめれば「漫画市場」ですから、そこへ小説が出品されたのは、おかしいのです。

アニメ作品から許可なく小説を構想し、製本して「漫画市場」へ出品し、後には有名漫画家の忠告にさからって「山も落ちもない」を自称した(とされる)人々は、さまざまなルール違反をしたわけですが……

自らを「やおい党です」などと名乗り、新聞やテレビで作品を宣伝するといったことを、しませんでした。

それは、当事者自身によって、「女性の表現の自由」の権利に基づく抵抗運動とか、正式な自己表現活動とは見なされていなかったのです。

その活動自体が、即売会という「ハレ」の場に限定された、ジョークだったのです。

お祭りの日にだけ許される無礼講とか、異性装とか、下克上とか、暴力(トマトやオレンジをぶつける)とか、そういうものです。

さらに言えば、日頃は家族で楽しんでいる自家醸造酒をバザーと称して売ったが、厳密には酒税法で禁止されているという状態に近いでしょう。それは、買って帰った人が「行けば買えるぜ」と言いふらしてくれては困るものだったのです。

本当は、大学なら大学、高校なら高校の部活動同士のおつきあいということで済ませたいものだったのだろうと思います。

あえて例えると「ふつうは選手の身内以外は観戦に来ない高校部活動同士の試合に、アニメ声優を副業とする高校生が出場するので、スポーツのルールも知らないアニメファンが詰め掛けた」みたいなことが起きたのだろうと思います。


【最後の学生運動。】

コミケは1975年に始まっており、最後の学生運動といった意味合いもあります。それは、本来の学生運動が内ゲバによる死者の顔を見るに及んで散会し、参加者の多くが安定を求めて就職していった後のことでした。

若者同士が非暴力のうちに集まって、文化祭を開いたわけで、お祭りだから仮装もするわけです。

その参加者たちには、男女を問わず、自分たちもいずれは無事に大学・高校を卒業し、就職し、30歳ぐらいまでには結婚して、最終的には実家の家督を継ぐという意識を持っていた人が大勢いたのだろうと思います。

だからこそ「就職できなかった」と愚痴をこぼす人もいるのです。

BL分野ではプロになれないから、創作家としての人生は諦める他なかったでしょうか? そうでもありません。

1980年代なら『風と木の詩』ほかを世に送り出した編集者たちが、いずれも存命だったでしょうから、漫画作品を見てもらうことができたはずです。

二次創作物の多くが、原作漫画キャラクターの原型を留めておりませんから、フキダシの中の人名だけを差し替え、オリジナル初出作品として編集部へ持ち込むことは不可能ではありません。

キャラクターにたいした思い入れがなく、まったくの営利目的であったならば、この作業は容易です。

もし「こういうのは、もう流行らないよ」と言われてしまったとしても、小説分野なら、まだ道がありました。

1990年代初頭には、天下の恩田尚之と、当時一番人気だった声優陣を迎えて、BL小説のアニメビデオ化が成し遂げられましたから、アマチュアが大きな夢を抱くことも充分に可能です。

同じ頃、角川書店が少女小説レーベルから少年愛分野を独立させています。当然、それに先立って「小説分野でなら、プロ原稿として作品を買ってもらえる」という現象が起きていたはずです。

そもそも、1970年代末以来『JUNE』という専門誌が存在し、その連載からハードカバーがいくつも登場していたのですから、「成人女性の職業選択としての耽美小説家」というものが、一般的に喧伝されないまでも、存在したのです。

もし「BLに親しんだせいで良い人生ではなかった」と思う人があるならば、その人の才能が足りなかったので、プロデビューできなかっただけです。

できていれば、「こないだの即売会で100部売れた」というにとどまらず、後々まで印税が入って来たでしょうし、アニメ化・映画化もしてもらえたかもしれません。声優さんと握手できたかもしれません。すばらしい絵師さんとコンビを組むこともできたかもしれません。

JUNE派にしても、ルビー派にしても、プロとなった作家たちは、その単行本の後書きに「ホモ最高」とか「どうせエロ」などと書いたでしょうか。たぶん書かなかったと思います。

成人による職業上の挨拶として、差別的でもなく、自虐的でもない文章を発表することができただろうと思います。

なぜ、その読者だけが「子供のままで良い」という定義づけになってしまったのか。


【女性の自立の象徴だった耽美。】

萩尾望都『ポーの一族』は、耽美分野の漫画としては早い部類ですが、少年同士の性愛を描いた作品ではありません。

海外文学をよく勉強した女性が、世の移り変わりと人生の哀歓を描くに際して、従来の少年漫画に登場するよりも女性的で可愛らしい顔をした少年を主人公に立てる、というアイディアに過ぎません。

そのような少年は、西欧には映画の子役・歌手などとして実在するという情報が与えられていたのですから、単純に「外国への憧れ」の表現として、納得することができます。

しかも、草分けというわけでもなく、それ自体はすでに1960年代、水野英子『ファイヤー!』によって成し遂げられ、受賞も果たしています。

受賞させた側(出版社のえらいさん)は男性ですから、「女が少年漫画を描くのは生意気だから差別してやる」ってことはなかったわけです。

耽美って言葉は、本来は潤一郎・久作・足穂・龍彦・由紀夫などを指した言葉だったでしょう。鬼六も入りますが、元々は「エロを書く」って意味ではありません。

美的なのは文章の技巧であって、本来は表現力が高いこと(詩を理解していること)を称賛する言葉だったと思うのですが、一般的には「表現の自由の名のもとに、逸脱的な性に言及する連中」という理解になっちゃったのでしょう。

ここでLGBTから「同性愛は逸脱じゃないぞ!」という突っ込みもあるかと思いますが、少年趣味となれば話は別です。とくにボーイズラブ創作となると、その鑑賞者の男女を問わず「子供にやらせて大人が眺める」という要素があるわけで、一般保守からすれば「ちょっと待て」と言うべきものです。

LGBTとしても、その責任者と思われちゃ困るでしょう。

1970年代半ば頃から起きたことは、20代後半に達した女流漫画家が、自分自身の耽美趣味を表現することでした。それがデビュー作という人は少なく、先行して長編連載を成功させています。

女性が自分の才能に自信を持ったところで、逸脱的な表現に挑戦した・勇気をもって発表に踏み切った、というのが耽美分野でした。

女性が自立の手段を得て、漫画家を続ける覚悟を決めたとき、それを自他ともに「男に甘えないで生きていく」「女を捨てる」というふうに考えたのが、1970年代でした。

逆にいえば、主婦であること・母であることが「男に甘えること」だと理解されていたわけです。

これに高校生以下の若い女性が憧れ、「私も東京へ行って漫画家になる。強い女になる」というふうに思ったとしても無理はありません。好みのドレスを描くデザイナーになりたい女性がいれば、好みの美少年を描く漫画家になりたい女性がいても不思議はありません。

繰り返しますが、女性が少年を描くこと自体は、すでに認められていたのです。

ところで、一人で生きる強い大人の女になることは、子供のままでいることとイコールではありません。


【アニメと耽美の混淆。】

1970年代後半以降、アニメが流行したこと自体は、時代の流れです。1960年代からやってきたアニメーター達にとっては「良い時代がきた」というものだったでしょう。

(忙しかったでしょうが)(あまり報われたとも言えませんが)

ロリータ趣味自体は、ナボコフに由来する通りで、古くから存在します。少年趣味やSM趣味への言及を含む文学上の「耽美派」自体は、もっと古いです。

それらとアニメの融合を思いついたこと自体は、若い世代の才気煥発さを示すってことで良いのだろうと思います。どう考えても、意欲的にいろいろなものを読む人からしか生まれてきません。

いっぽうで、初期のコミケ主宰者は、既存漫画作品の評論を丁寧に書いたと伝えられます。何を何冊売ろうとも、手書き・ガリ版刷りの時代に巨利を得たとも思われません。そこは、決して最初から「アニメで稼ごうぜ!」というところではありませんでした。

じつは1950年代から耽美派を自認していた文芸ファン・1960年代から(何らかの)アニメ関連活動を手がけていた人々にとって、1980年代に「お金になるから皆でアニメ二次創作しようよ♪」とお誘い合わせのうえ押しかけてしまった若い世代は、困った子たちだったのかもしれません。


【大人の男女の共同作業。】

間違いは、少年趣味の作品を一読した男性が「こういうのを読むのは子供だね」と言ってしまったことによるのではなかったか、と今さらながらに思います。

そして、それを受けて「そうです、ああいう子供たちはね」と言ってしまった大人の女性がいたことが、混乱に拍車をかけたのではなかったかと思います。

女性の自立への危機感と、男色への忌避感の両方から、それを遠ざけておきたいと思う一般男性社会の保守意識が「子供のせい」にしてしまい、それを当の女性が補強し、若い世代自身がそれに乗ってしまったという、価値観の「ずらし」のようなものが発生したのではなかったかと思います。

「BLの子供化」は、一見すると女性の表現の自由を主張しつつ、じつはストレート男女の共同作業によって、若い女性自身のうちに偏見を内面化させていくという、厄介な現象だったんじゃないかと思います。

ゲイ界から見ると「何やってんだ、あの人たちは」というものだったかもしれません。

彼らとしては「子供っぽい女性が二丁目まで来て騒ぐのは困る」と申し出ているのに、言えば言うほど女性が子供っぽくなっていくのです。

女性が「結婚せずに大人になる」とはどういうことか、答えを出しきれずにいた当時のフェミニズムにとって、やおい論は「鬼門」だったんじゃないかと思います。

そして更に厄介なことは、今なおこれを克服できずに自虐を続ける中年が、若い世代の孤立を深め、さらに自虐させるという、下降スパイラルを起こしていることではないかと思います。


【子供を口実に創作する日本。】

日本は、保守的な大人社会が受けいれがたいと思うものを「どうせ子供が見るものだから」という言い訳のもとに大人(の一部)が描いて、リリースするという習慣があります。

NHK朝の連続ドラマは、子供たちが登校した後の午前8時半頃の放映・お昼の再放送です。本当に大人が見ることを想定しています。これには、ドロンジョ様のようなボンデージ女王様は登場しません。

日本人でも、お金さえあれば、金髪の女性を雇って、SM的な服装をさせ、エロティックコメディを演じさせることは不可能ではありません。

本来ならば、大人が多くのお金を投じて楽しむべき、外人女性との交流・逸脱的な性への憧れが、子供に見せることを口実に、アニメとして提供されたのです。

「子供にエッチなものを見せれば、いい商売になる」

これは海外から見ると、それ自体が児童の搾取というふうに映るかもしれません。言葉の壁をこえて、世界という大型巨人にのぞき込まれる現代ですから、これには抵抗するにも賛同するにも、真摯に対応する他ありません。笑っても誤魔化されません。


【二次創作には自虐する理由があります。】

二次創作であることと、BLであることは、よく混同され、「ロリは大丈夫だと思うけどBL化は無理」と言う人もあれば、原作ファンの目に留まるところで二次創作を発表するなという話なのに「男同士の何が悪いのですか」となることもあります。

男女カップルでさえあれば、純愛物語のSM化という原作破壊が万人に受け入れられるとは限りません。

作家の男女を問わず、二次創作という権利的に明快でないものを敢えて自己表現手段とすることは、「石畳を掘り起こして投石とする」という、弱者の武器に例えることもできます。

当事者にその意識がないとしても、「出るところへ出れば黒」である行為を続け、売上アップを求めて宣伝するということは、存在自体が現行法への抵抗運動を意味します。

これが「現行法」という権力に対する弱者であることを主張し、「どうせ若輩者の話は聞いてもらえないし」と自虐することは、理にかなっています。

また、理にかなうことをもって、好きな二次創作を続けるというループを起こすことも、それはそれで理屈です。

抵抗運動自体は、してもいいのです。少数派には「勝手に多数決で決められちゃかなわんよ」という権利があります。

座り込み抗議に対して、機動隊が対応すれば大騒ぎとなり、報道もされますが、工事が始まらない内は、テントを張って居座り続ける人がいても、世間はあんまり気にしなくなるだけです。

ただし「毎晩騒がしい」となると、違ってくるかもしれません。

二次創作の理由を勘違いする人もいますが、金のためなら他のことをしてもよいので、書いたり読んだりすることが一番得意だと思う人が、わざわざ自腹で続けているには違いありません。

誰も「二次創作をしろ」とは言っていません。「好きでこんなことしてるわけじゃない」と言う人は、早めに他をあたって、人生の意義を見つけると良いです。


【一次耽美が自虐する理由がないのです。】

一次創作BLは、なんだかんだ言って認められています。揉める元になりやすいのは、二次創作です。

「オリジナルBLを書きました」という女性へ、ほかの漫画家が「なにをぉ!?」と怒りを表明することは無いです。

多くの一次BL作家が、ゲイ作家と仲良くやっていると言っても良いでしょう。「表現の自由」を尊重する創作仲間だと思えば、そうなります。

一次作家が自虐する理由って、あんまり無いのです。「応援してくださる読者様のために心を籠めて書きました」と言って良いです。男性にだって、応援してくださる読者様がいるでしょう。

「山なし落ちなし」とは、二次創作という身分をぼかすためのものです。「山も落ちもありませんが、二次創作です」という意味であって、BL全般を指す言葉ではないです。

誤解されがちですが、「BL全般に山も落ちもないです」という意味でもありません。そのように真に受けて「私はエロしか書かなかった」という人は、その人自身の理解力の問題です。

「二次創作としてのBL」というか、「BLとしての二次創作」が、そんなことになるとは思っていなかった原作ファンを驚かせたり、原作者を怒らせたりすると「まずい」と思われたから、二次創作に関してのみ隠語を使ったというだけです。

「腐女子」も、誤解されがちですが、アニメファン女性全般を指す言葉ではありません。アニメファン女性=二次創作BLファンではありません。二次創作BLを求めるアニメファンが同人誌即売会へ殺到したからといって、「逆もまた真なり」ではありません。

これが分からない人は「数学が苦手だったかな」と思います。

オリジナルとしての耽美の発表場所は、1970年代以来、いくつかの専門誌や単行本レーベルが存在し続けています。

ネットのない時代には、アニパロとしての耽美の発表場所は、ほぼ同人誌即売会しかあり得ませんでした。

「おもに即売会で二次的耽美作品を発表する若い女性」が「やおい」と自称していると勘違いされたのですが、これが摂食障害が原因であるとか、トランスゲイであるとか、成育史に問題があるとか、いろいろ言われたので、それらが一段落した頃になって登場したのが「傷んだ少女」という言葉でした。

表面的には「ワープロ誤変換を見てウケた」というジョークなのですが、意味合いとしては「いろいろ不本意なことを言われて傷ついた」とか「もう不貞腐れてやる」とか「はばかりながら、くさっても女子です。男(みたいに単純)じゃありません」とか、いろいろ微妙なものを抱えているだろうと思います。

でも、あえて言えば、一次創作というのは、それらの鬱屈を乗り越えて正当な自己表現手段を獲得した状態なわけで、技量を認められればそのままプロ化できるという「夢」をも内包しています。

理屈としては、自虐する必要がないのです。スポーツ選手などと同じように「夢に向かって頑張っています」と言っても良いはずなのです。

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