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【昭和53年、里中満智子『晶子恋歌』講談社】


末に生まれし君なれば、親の情けはまさりしも。

子供の頃になぜか掲載誌を一回だけ買って読んだことがあったらしく、見開きいっぱいに『君死にたまふことなかれ』が掲げられ、その下で兵隊さんが倒れているという頁が鮮烈に記憶に残っていたのを思い出したので、取り寄せてみました。

行かずして古本が買えるネット時代は有難い限りです。再読して間然するところのない美しい傑作でした。

思えば子供心にも、晶子の皮肉の痛烈さと心痛の深さ、それを描く漫画家の技量と心意気に感じ入ったものでした。


【漫画の詩心。】

あらためまして、明治の女流歌人・与謝野晶子の伝記を描いた漫画作品です。

ほぼ全ての頁が晶子の目線から、彼女の独白を多用して、純文学の一種としての漫画という体裁を取っており、根が誠実だからこそ不倫に走るという人間性を、漫画家自身が真摯な姿勢をもって再構築しています。清く正しく官能的です。

キャラクターの顔が非現実的かつ見分けにくい典型的な少女漫画ですが、1970年代らしい描線の流麗さがあり、絵柄そのものが叙情性を含んでいます。目の保養です。

コマ割はシンプルで、展開が早く、台詞はワンセンテンスが短く、語呂の良さがあって、じつに気持ちよく読めます。

この頃の女流漫画の台詞には、詩心があったと思います。

江戸~鎌倉期の女流文学というのは殆どないわけで、近代女流歌人と平安女房文学は直結しているでしょう。そのことに、1970年代の自立した女性であった創作者たちも共感し、よく勉強し、末流につらなることに誇りを抱いたのでしょう。


【非少女漫画。】

初出は講談社『別冊少女フレンド』昭和53(西暦1978)年3~5月号。

作者は昭和39(西暦1964)年、第一回講談社新人まんが賞に入選して世に出ました。すでにこの道14年のベテランです。単行本カバー見返し(昭和56年第5刷)に印刷された作者紹介に誕生年は記されていませんが、少なくとも、1978年の時点で未成年ということはありません。

なぜ年齢が問題かというと、初出誌が「少女」フレンドであるにもかかわらず、描いている人は成人であり、内容は「女性が不倫した際の心構え」といったものであるからです。入籍前の同衾も、一度ならず丁寧に描かれています。

当時すでに少女誌が「少女」を名乗りながら、事実上ヤングアダルトの読むものになっていたのでしょう。

入籍前の男女同衾は、さかのぼること5年も前に池田理代子『ベルサイユのばら』が感動的に描いています。それは晶子がくらったような「ふしだら」とか、発禁が妥当とかいった非難を浴びなかったはずです。

『恋歌』カバー見返しには、作者の趣味として「刀の鍔のコレクション」ともあります。

……精巧な美術品であることは認めますが、あまり女性的な趣味とはいえないはずです。

好きなものはコーヒーともあります。漫画家が何を飲もうが、なぜそんなことをわざわざ書くのか。

缶コーヒーに男性の顔が描かれるとともに、「違いの分かる男」をキャッチフレーズにしていたインスタントコーヒーもあったくらいで、コーヒーとは男性的のものでした。

男顔負けのウーマンリブ女性が、最初期の自立女性であった歌人を紹介した。そういう意味だと思われます。


【女の意気地。】

じつは、強い女性として描かれているのは、晶子ばかりではありません。

鉄幹のダメ男ぶりは詳細に描かれており、その正妻が「わたしにはあなたが必要ではありません」と明言して彼の手を振り払うのは、カッコいい場面です。良人の道楽ともいえる雑誌発行に苦労させられてきた彼女には、合理的で正当な怒りがあり、悲しみがあります。

また、彼女を女主人として尊敬し続ける下働きの女性が、晶子を後添えとして認めることができず、職を辞していくというのも、この女性なりの意地を通した姿です。

晶子の娘時代の友人でもあった女性が、鉄幹への恋を諦め、親の意を汲んで他所へ嫁いだのも、本人は自分を「弱い女」と表現しましたが、諦めるという強さを発揮したのです。

すでに女流漫画は、成人した女性が、晶子と同じように、女の誇りと思いのたけを表現する分野となっていたのでした。


【夢と結婚。】

以下、あくまで里中漫画に描かれた晶子について。

晶子は実家の和菓子店で帳場を守りながら王朝文学に親しみ、未経験な恋を詩(短歌)の形で表現します。

父親は放埓な実体験を基にしていると勘違いして彼女を叱りつけますが、彼女および理解ある弟は「夢」の中の恋を描いたものであって、それが新時代の文学であると主張します。

今の人は平気で「妄想」なんて言葉を使っちゃいますが、昔は性愛の描写にも「夢」という美しい言葉を使ったのです。

で、晶子はそれができるなら、嫁に行っても家事のかたわら夢を見続けることはできたはずです。良人の理解があれば、それを表現し、出版することも可能だったでしょう。

本当いうと「芸術に理解ある男性のところへ嫁に行きたい」という気持ちなんですが、そういう相手はなかなか見つからないということと、創作(空想)を続けたいことと、帳場を守るのは退屈だということが混同されています。


【創作と実務。】

じつは、ものを書くということは、それ以外には何もしない・働かないということを意味する必要はありません。

たとえ夢かなって理想の芸術家に嫁ぐことができても、それならそれで彼のための家事育児には忙殺されるのです。

王朝歌人というものは、貴族階級だったので、自分自身の衣食住には手を焼かなかったわけですが、自分より高位の女性にかしづいていたので、衣類のお世話をしたり、退屈な儀式に出たりはしていたのです。

日本では作家として身を立てるということは、連載を持たされるということで、だから作家(漫画家)は他に手が回らないほど忙しいのですが、これはヤマザキマリによれば異常事態なんだそうです。

海外では「オックスフォードの教授にして幻想作家」ということがあるはずです。天文学者にして空想科学作家ということもあるはずです。本業は新聞記者という作家も多いように思われます。

本業のかたわら、バカンスを利用して原稿をまとめ、友人のやっている出版社へ送って、対価を得る。評判が良くて、印税契約がしっかりしていれば、次回作を書かなくても、増刷がかかる限り収入を得られ続けます。

それで良いはずなのです。

芭蕉の頃から、歌人・俳人といった人々は、各地方で「庄屋さん」として農作物の収穫を監督したり、市街地で大店を構えたりしていた人々であったはずです。

晶子も和菓子店経営のかたわら、夢をまとめた歌集をときどき出版するということで、問題ないはずなのです。

問題があるとしたら、「ふしだらな女主人の店では買い物したくない」という客がいることです。いなければ良いのです。

いたとしても、それを意に介さない若い女性客が、甘味とともに女主人の発行する同人雑誌を買いに来て、文学サロンを形成するということであっても良いわけです。若い女性客にとって和菓子が旧時代のものと感じられたら、洋菓子に挑戦しても良いはずです。

実際にそうやって業態を変えてきた店もあるでしょう。これがダメだったとしたら、まだ女性客にそれほどの購買力がなかったという事情、また晶子自身の商才の程度といったことが関係していたのかもしれません。

晶子は「女だから大学へ進ませてもらえない」と言いますが、女性も師範学校へ行って女学校の先生になることはできました。彼女が師範学校へも行かせてもらえなかったなら、店を手伝うべきと考えられていたからで、女であることとは別の問題です。

商家の子として家業を手伝うべきとされることは、男性も同じです。

もし女学校の先生になっていれば、生徒を集めて自ら同人雑誌を主宰することもできたでしょう。

その内容が「ふしだら」であれば、解雇されるかもしれません。樋口一葉や、後の吉屋信子のようなものなら、たぶん解雇されないでしょう。


【創作者の性倫理。】

とすると、ことは女だてらに物書きであることではなく、その内容です。性倫理を問われたのは晶子ばかりではなく、鉄幹もです。

ふしだらなことを書くと、他の職業と両立しにくいので、ふしだらな表現を芸術であると言いたい人は、貧乏覚悟で文筆に専念するほかないということになります。

現代では、これを逆転させて「ふしだら上等。売れるんだからいいじゃん」という言い方をしますが、他の職業と両立しにくいことは今も同じです。


【女性の性倫理。】

かりに芸術を理解する男性を良人に得たとして、その後でたとえば青い眼のチャリネ役者に一目惚れし、「彼と手に手を取って逃げる」といったロマンスばかり出版すれば、どうでしょう。

良人自身は「夢の表現」として理解してくれるかもしれません。良人のほうでも未成年の遊女と心中するなどというロマンスばかり書いているかもしれません。

世間から見ると、変わった夫婦です。鼻白む人も多いかもしれません。

こう考えると、晶子が高く評価されたのは、良人への性愛を題材としたからです。

また自分で商才を発揮したのではなく、良人の紹介によって自費出版できたという、夫婦二人三脚の美徳を発揮したからで、文才と主婦業を両立させた稀有な成功例として語り伝えられることになったのでしょう。

今でこそ、主婦にしてロマンス作家という人も珍しくないでしょうが、情熱的で奔放と言われがちな晶子にして、じつは真の評価は貞淑さに与えられていたということができそうです。


【不倫の自尊心。】

晶子は念願かなって鉄幹と結ばれた夜の明けた朝に、いきなり彼の本性に気づかされます。

そのわがままぶりを「母親のように大きな心で愛していこう」と決意しますが、読者の中には「意味わかんない」という人がいても不思議ではありません。浮気性のダメ男を許す理由は何か。

鉄幹自身がまじめな人だったら、姑息な手段で若い女を呼び出すこともなかったわけで、彼のダメっぷりを認めないことには、晶子自身の恋が成就できないからです。

よく考えると、共依存ってやつです。

日本が列強に対抗していこうという時代を背景にすると、若者らしい情熱と文学への夢を貫こうとする姿勢は、誇らかで勇気あるものに見えます。

これが日露戦争後の(私小説の)時代を背景にすると矮小化されて、田村俊子の『木乃伊の口紅』になります。

さらに大東亜戦争後に文化が大きく変わる時代になると、前時代や、戦禍を経験しなかった西欧に残った古城(を舞台にしたフランス映画)などといったものへの憧れが生じて、森茉莉になります。


【韻文と散文。】

晶子の描いたものは、一般女性にとっては夢のような恋の現実であって、夢ではありません。良人とともに味わう生々しい性欲であり、嫉妬です。

本人が若い頃に「夢を描くのが新時代の芸術」と言っていたのなら、芸術論が途中ですり替わったことになります。

現実を、いかに美しく表現するか。本当の恋と嫉妬の苦しみの表現を、いかに歌として成り立たせるか。

苦しみを表現する手段としては、品のない常套句をつらねて浮気性の良人を悪罵するということでもよいのですが、それでは短歌作品として評価されません。

薔薇の花の赤さを、心の血の鮮やかさを、いかに詠うか。具体的には、どのような単語を選ぶか。どのようなリズムを持たせるか。

現実を描く言葉の「粒立ち」をピアノの音のように整えるのが、短歌であったり、俳句であったり、詩であったりするのでしょう。

対して散文は、淡々と「庭に薔薇が咲いた」といえば良いことになります。そこから何が起きたのか。鳥に食われたのか。花泥棒をつかまえてみたら、かねてより意中の少女だったのか。じつは借金取りが彼女を追いかけていたのか。

冷静に考えると、そこに花が咲いている以外には何も起きていないのが詩です。小説は、それではなかなか済みません。

「小説の生命は俗なる所にあり」と書いたのは永井荷風でした。小説を絵で語ったのが漫画ですから、漫画の生命も俗なるところにあります。

石ノ森章太郎は、漫画を詩にしようとしたと思いますが、漫画道の主脈は俗なるところを堅持したのでしょう。


【終章。】

恋の表現をめぐって世間と闘い続けた晶子の反骨精神は、ついに菊の御紋へ皮肉を投げつけるに至ります。

これにて彼女は性愛に赤裸々なだけの痴女ではなかったことが証明されたことになります。すごく意地の悪い言い方をしてしまうと、彼女の成功は弟さんの犠牲の上に立っています。

この後、第一次大戦を機に、男性が減ったことを受けて、女性の「社会進出」が始まります。

良人と世間に泣かされていた晶子も、『君死にたまふことなかれ』の発表後は、毅然として自らの人生を総括する一言を放ちます。

実際に鉄幹のもとへ走ることがなければ、夢の恋を描き続けたとしても「花の色が違って」いた。

晶子の言うべきことは、ここに尽きてしまったわけで、最終頁は唐突に鉄幹の独擅場となります。彼は独白によって、エピローグを担当したわけです。

わずか三回の連載に凝縮された「物語」の起承転結が見事です。

漫画が文学の裏打ちを持ち、語り方における品格を有していた頃が偲ばれます。


【漫画家の自尊心。】

この時代の多くの女流漫画家は、二十代後半から三十代前半の結婚・出産適齢期にして独身だったわけで、親の言いなりの結婚を拒否して芸術を求めた歌人は、婦徳ならぬ新時代の女性道というか、女の花道というか、そういうものの先輩でした。

その姿をあまさず描くにあたって、未婚の同衾場面を「ふしだら」とか言われちゃ困るわけで、この女性における性倫理の打破と、その表現の自由を求める心において、主人公と作家が一致しており、その誠実さが読む人の心を打つのです。

でも実際に漫画家が不倫に走るとは限りません。読者へおすすめする意図もないでしょう。

いっぽうで、晶子自身が称賛されたのは、夢を夢で終わらせなかったからです。彼女の反骨精神は本物だった、男顔負けだというわけです。

この「夢」と現実を一致させるべきである、いつか必ず一致するものであるという意識は、今も受け継がれており、創作者の足枷となることもあります。


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Misha

Author:Misha
スマホ時代にさからう評論系長文ブログ。冷静に通読できる大人の読者様を想定しています。

「若い人」に直接呼びかける文章は、18歳以上のヤングアダルト対象です。高校生は受験・就活を最優先してください。

書く人は、新旧とりまぜて映画とアニメを見ながら文芸書に取りくんでみたり、昔の漫画を思い出したり、お国の先行きを心配したりしております。

映画評は、アップロードする以上は「下げる」ようなことは言わないことにしております。あらすじもあまり申し上げませんので、楽しみに御覧になってください。記事冒頭の色つき文字は映画中の台詞・挿入歌の歌詞からの引用です。

なお、取り上げる作品は、暴力・エロスなど特殊な要素を含んでいることもあります。

ときおり、耽美・BL・同人・LGBTに言及します。いずれの分野からも、偏見と差別と自虐がなくなるといいと思っております。

「二次創作の責任を二十四年組に押しつけるな」「実在同性愛者に甘えるな」が基調です。

全体として、二十四年組ファンが社会学者に物申すという珍しい構図。一部勘違い同人を叱責することによって全体を守るという意図もあり、ときにかなり辛口です。

記事は時々予告なく手直し・分割・削除しております。保存は個人的閲覧の範囲で、お早めに御随意に。転載・改変利用は固くお断り申し上げます。

解題


Casketとは、玉手箱。

でも検索すると棺桶がならびます。来世まで持っていきたい好きな作品の記録帳とご理解ください。