ネットしても一人。

  14, 2015 12:24
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決済といえば、少し前に「若い人はクレジットカードを持っていないので、デジタル書籍をダウンロード購入できない」という話がありました。

ここで重要なのは、クレジットカードの不便な点をあげつらって、アンチクレカ派とクレカ派に分かれて論争する、といったことではありません。

好き嫌いを基準に対立が発生し、議論の争点がずれていくといったことは、日本に限りません。

(いま読んでるのは、ミュシャンブレッド『近代人の誕生』石井洋二郎訳、筑摩書房、1992年。15世紀には、おフランスも近所喧嘩ばかりしてたらしいです。)

対立の根本は、人間も生き物ですから、「限りある食料を分けてやりたくない」という本能に基づいているので、部分集合に分かれて争うことは、熾烈でもあり、「本能に基づく行動」として快感を生じるという要素もあります。

だからこそ、本能のままに叫ばないことが重要なのであり……重要なのは「クレカありか、なしか」という議論ではなく「他にどんな手段があり得るか?」と提案することです。

デジタル書籍そのものに関しては、業界も「買えない」と聞かされて黙っちゃいないでしょうから、その後、ネット銀行口座から即時引き落としなど、さまざまな対応が取られたでしょう。

(これも、他で買い物して溜めたポイントを使えるといいのかもしれません。)

ただし、そもそも信販カードを作れないということは、若すぎるか、収入が不安定ということですから、実店舗へ行けば紙の本を何冊でも買えるというわけでもないでしょうし、新作映画を見てきたとか、旅行へ行ってきた、費用のかかる愛玩動物の話題などでブログを書くこともできないかもしれません。

アーティストとして作品発表するには、才能はもちろん、ハイ・パフォーマンスなPCや、お試し版ではない描画ソフトが必要となるでしょう。写真ならもちろん高解像度の一眼レフ、あるいはそれに匹敵するスマホ等。

徒手空拳で「インターネット」に参加して、ソーシャルネットワークサービスのアカウントを増やせば増やすほど孤立感が深まる、ということはあり得ます。

だからこそ「リツイート」をかせぐことを自己目的に、過激・不適切な言動を流すということも起きるのかもしれません。

テレビ番組では、猫耳の可愛らしいお嬢さん達が「白黒つけずに七十五日」と歌っていますが、ネットの噂は一両日でしょう。

三日目くらいに「○○が話題に」という「まとめ」記事が挙げられ、それがアフィリエイトサイトへ転載され、消費され尽くして、一週間以内に消えていくといったところでしょうか。

だから、せめて話題にだけは乗り遅れまい、ニュース(新着)として話題が発生する瞬間を逃すまいとすれば、三日と気を抜けないことになります。

最近は、スマホの急激な普及によって、もっとスパンが狭まっているかもしれません。

タイムライン(ダッシュボード)から離れられない依存症の状態になりやすい道理です。

ひとつの対応策としては、前もって「ネットやればやるほど寂しくなることもあるよ」と知っておくのが良いでしょう。

とかく、大人は危険であることだけを強調しがちです。でも、それだけ刺激に満ちているという、逆の宣伝効果を持ってしまうこともあります。

「風がふけば桶屋がもうかる」みたいな話ですが、無料で参加できる「インターネット」へ参加して、かえって多くの人が実在テーマパークで楽しんでいることを知り、寂しくなってしまって、自己主張したくなり……という、負のループの発生機序を説明しておくのも、いいんじゃないかと思います。

これ、現代の大人は意外に気づかないのです。

自分自身が、テレビで他人がうまそうに飯を食ったり、スポーツに興じたりする姿を見せられることに慣れているからです。冷静に考えると、自分はそれに参加していないということを忘れているのです。

テレビは、どのみちテレビ局が取材に来てくれないと、出演できないことをわきまえていますから、あきらめているといっても良いのですが、ネットは双方向性であり、大勢の素人さんが洒落た写真や上手なイラスト、気の利いたジョークを披露しているところです。

無力感と孤立感が深まりやすいように出来ているのです。

(もしかしたら平安貴族が出家したくなる時って、こんな気分だったのかもしれません。)

なお、平安貴族といえばってのもあれですが、戦後の日本では「男色に興味のある女性は子どもだから、何を言っても許される」という定義を発生させてしまった経緯があります。

これが、1980年代から今に至るまで、新宿二丁目において、男性側の人権被害がなくならない一因ですが、この考え方には昔の社会学者がお墨つきを与えてしまった、あるいは彼ら自身が、いわゆる「同人」の活動を、不良少女によるものと勘違いしたことによっており、研究手法の問題としても、学者の自己批判という観点からいっても、痛恨のミスだったと思います。

大学教授、あるいは「文化人」などの肩書きを持ち、メディアに対して影響力のある人、または記者自身が、勘違いに基づいて偏見を広めるということは、今でも生じており、いわく「インターネットは考える能力を奪うから危険だ」とか「スマホでは声を聞けない」とか「男児に女児用水着を着せたがる保護者がいる」とかですね。

(最後の話題は、男児にラッシュガードを着せれば済む話を、異性装させたがる親がいるかのように誇張して書いて、息子の性的被害を恐れる親のまじめな気持ちをからかった記者がいるというものです。)

インターネットが悪いんじゃないです。スマホが悪いんでもないです。創作物が悪いんでもないです。カードが無いことが悪いんでもないです。

付き合いかた次第です。



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