白河院周囲の人間関係を見て分からせることができるか。

  09, 2012 21:02
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もう一昔前になるけど、バラエティ番組で「素人家族の自宅に100万円の札束を隠させ、元敏腕刑事が奥さんを尋問して隠し場所を見抜く」というコーナーがあった。(見抜けなければ100万円は素人さんにプレゼント)

つまり目線がチラッと動いた方向には、気になる物がある。隠し場所の近くに刑事が立って、ズバリ「ここですか?」と訊けば、「さァどうでしょうね~~」などとわざとらしくとぼけて、かえってバレてしまう。

俳優の演技・映像作品というのも、そのような観客の経験に基づく「常識的」な判断にもとづいて成り立っている。(だから俳優は無駄にキョロキョロ動かないことが重要だ)

年配の男と女が寄り添っている映像を示されれば、まずは「夫婦だろう」と思う。

「じつは女社長と秘書」などであれば、女社長はこれ見よがしの宝石を身に着けている・秘書男性はやたら腰が低いなど誇張した表現が必要となる。先入見を防ぐ・打ち壊すにはそれだけのインパクトが必要だからだ。

以下、やや性的な話題を含みます。
男女の年齢差が大きければ、まずは「父娘」だ。ラブシーンが示されれば「なんだ、パトロンと愛人だったのか」と思う。が、じつはこの二人が「養父と養女・舅と嫁」という社会的関係であることは、見た目では分からない。

ここで必要なのは、だから「法王さま……」という台詞ではなく「おとうさま……」だ。かなりサムイが、やるしかない。
でなければ前フリとして家族団らんの様子を描いておく必要がある。(それはそれで寒い)

鳥羽帝と璋子は結婚式で並び立つ様子、あるいは同衾するシーンを映して、夫婦であることを示す必要があるし、白河院と鳥羽帝も、顔を合わせて「息子よ」「父上」と呼びかけ合うシーンがあったほうが分かりやすいだろう。たとえ当時そのように呼び合う習慣がなかったとしても、早い段階でやっておく必要がある。

白河院が璋子を可愛がりつつも同時期に舞子をも囲っていることを示すには、女性が一同に会する場面が必要だ。璋子はハイレベルな教育を受けたことを示すためにスラスラと和歌を詠むべきだし、舞子は白拍子出身であることを示すために舞ったり、今様をうたったりするシーンが必要だろう。

『桜の森の満開の下』では岩下志麻演じる女が直衣(狩衣かも)と烏帽子で男装して颯爽と舞う。最初から妙に肝の座った女だったが、どうやらプロの女性だったと知れる。

アメリカは人種と民族のるつぼで、各人が背負っている文化が違う。把握している歴史が違う。
(本当は日本もそうなんだけど)
極端にいえば簡単な英語しか分からない程度の人でも、観て楽しめる作品が必要だ。

だからローマ皇帝が「わが息子よ」といいながら青年を掻き抱いたり、女性が「お父様」とか「おじさま」と呼びかけながら挨拶したり、なんて場面が時々ある。

だから、逆にいうと、一度も顔を合わせた描写のない人物どうしが実は親子・夫婦などの濃い関係にあることをナレーションで聞かせて終わりにしてしまうのは、非常に日本的な作劇法といっていいのかもしれない。

先日の大河ドラマでは「法王と舞子の双六」という隠し玉映像が披露されたが、あれだけでは「では法王とは誰か」が分からない。「天皇とは違うのか?」「そもそもここはどこか?」「宮中とか朝廷とかいうのとは違うのか?」

『ヴェロニカ・ゲリン』はタイトルバックがダブリンの港の空撮で、だんだんカメラが地上に降りて、船荷に混ざって怪しい小包が降ろされ、いかにも怪しい黒いバンで下町へ運ばれ、計量して売買される様子が示された。下町の路上では、街じゅうに注射器が落ちている……

『ロード・トゥ・パーディション』では幼い少年が弟とともに母親のいるキッチンで宿題をし、父親の帰宅を迎えて、彼の着替えを見守るが、彼の身の回り品の中に拳銃があるのを見てしまう。ドキッとさせられる場面だ。はたして父は刑事なのか裏社会の人間なのか?

いずれも説明的だが印象的でもある。

また、場面転換ではまず建物が屋外から映される。車道を車が走ってきて、下町とは様子の違う洒落た建物の並ぶ住宅街に入り、主人公がそこで車を降りると、庭で遊んでいた子供が「ママお帰り」などとやる。主人公はここに住んでいて、自分の子供もいるんだ……と分かる。

「日本の平安時代末期」を、歴史を知らない人・外国人にも分かるように示すには、ベタでもやっぱり平安京を「空撮」(CG)して、九条あたりはひどく荒れているのに、朱雀門を入ると別世界、黒い束帯をつけた公卿が会議し、結果を天皇に奏上するが、それだけでは実務が動かず、賀茂川の向こうを白河と称し、そこに天皇の御座所とは別の大きな屋敷があって、院と呼ばれる法体の人が(法体にもかかわらず愛妾とともに)住んでおり、ここでも会議が開かれていて、朝廷からそこへ使いがいき、初めて決済が降りる……とじんわり映しておく必要があるだろう。

放映中の大河ドラマは、非常に唐突に始まってしまった。院と天皇と公卿の関係が示されないままに、武士が不遇である、という話が始まってしまった。宮中の人間関係は源為義の説明セリフの挿絵のように部分的に挿入される。『犬神家の一族』序盤で弁護士の語りのとき使われた手法だが、あれは先に一族がひとつ屋根の下に集まっている様子が示されていた。見覚えのある女の顔があらためて順に映され、「長女の松子・次女の竹子……」と紹介されるから観客も「そうか」とわきまえやすい。

残念ながら、璋子の顔は影に沈んではっきりしない。白河院と鳥羽帝の親子関係も見て分かるようには示されない。宮中の神秘性を出そうとして裏目に出た。

また為義と忠盛との人間関係も、敵なのか友人なのか分かりにくい。そのうえ土地勘がつかみにくい。建物の屋根から上が映らず、密閉感があり、閉塞感があって雰囲気づくりにはいいのだが、ドラマの場面が移ったことが分かりにくい。誰がどの屋敷の主で、どのくらい離れているのか。

長距離の移動は、『スパルタカス』みたいにCGを使えば、古地図と海、建物などの映像を重ねてテンポよく示すことが可能だ。『そのとき歴史は動いた』などのドキュメンタリーではやってる手法なんだから、流用できそうなもんだけど。

社会性を含んだ人間関係は、「特命課ーー!」と嫌味っぽく呼びながら隣の部屋からイタミン登場、などという方法によって、「部署が違い、いがみ合っている」ことが分かりやすいわけで、どうもそういう「ドラマでの描き方」を知らない人が場面設定してしまったような気がする。「彼と彼女は夫婦」と小説の地の文または設定書を書くことは得意だが、それを絵でどう見せるかを知らないという、ぎこちなさを感じる。

第1話からベッドシーンと女性の惨殺が示されたので、「家族で見る」ことを前提にしていないのは明白だ。国民的ドラマであることをかなぐり捨てて、海外ドラマ的なリアリズム・刺激性を採用した。若い男優をそろえて「歴史に詳しい女性」をターゲットに絞り込んだ。その歴女の理解力を頼りにして、制作側が作り方を端折った、というところだろうか。
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