【同人むかしばなし9 ~女流におけるSFの受容。】

  30, 2015 11:24
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手塚漫画は映画フィルム(アニメの絵コンテ)を踏襲しているので、何事も四角い枠の中におさめて描かれていました。

古い時代の少女漫画は、手塚流を踏襲していたので、四角い枠の中に人物が納まっていました。

新世代である大島弓子ふうの少女漫画における「コマ枠を無視した人物画と、その周囲に散りばめられた散文詩のような台詞」といった形式は、『少女クラブ』などに掲載されていた、絵入り読みものを直接に継承しているのだろうと思います。

小説や散文詩を書いては、自分で挿絵を入れる、あるいは絵の上手なお友達に描いてもらうといった趣味は、もうずいぶん前から女性の間に根づいていたのだろうと思います。

お金もなく、印刷所を訪ねる伝手もない時代、そのような作品(肉筆原稿)は、お友達と二人だけの秘密の宝物になったのかもしれません。


【女性によるSFとミステリーの受容。】

竹宮・萩尾の作風からいって、その後を追った女性の意識は「少女漫画を描きたかった」というよりも、「女だてらに、少年を主人公としたSF漫画を描きたかった」というのが本当でしょう。

いわば「女流少年漫画」です。手塚・石ノ森を愛読する人が、みずからの性別をかえりみず「ヒーローを描きたい」と思うことは自然です。

現代の同人界において、少年趣味の意味で用いられる「ショタ」という単語は、その語源説を真に受ければ、戦前の探偵小説、または初期のSF漫画作品、およびその動画化である白黒放映時代のアニメ作品に由来します。

でも、結局のところ、女性がSFをきちんと描いた例は少ないものです。探偵もまた、女性は憧れるだけで、本格ミステリを書いた例が少ないものです。

日本の文壇は、私小説を至高としており、女流純文学にも昔から生活苦を描いた作品が多いですから……

もっと空想的・冒険的な作品を男性が書いたものを読んで、ワクワクするという女性もいたのでしょうが、自分で再生産することができず、なんでも三島由紀夫ふうの不倫小説の文脈に落としてしまうという流派のようなものが、かなり早期から発生していたのかもしれません。


【ファンクラブ会報における混淆。】

小説の得意な学生は、いつの時代にも存在しましたが、大学生のアニメファンが決して多くはなかった時代に、「ウケ」を狙って、自分でも知らないキャラクター名を用いて小説を書いてみようという発想は、あり得ません。

CS再放送が存在せず、テレビシリーズのボックス販売など想像もつかず、そもそもビデオデッキが普及していなかった時代に、「書いてみよう」という発想は、当然ながら、オンタイムで番組を視聴した人からしか生まれません。

その目的は何でしょうか?

即売会成立以前には、大きな利益はあり得ません。一人で大学ノートに書いていたという人もいます。大学ノートを友達に読ませて「一回百円」と言えば、友達なくします。

それは、やっぱり、次週の放映日を待ちきれずに、物語の続きを予想したり、番外編を構想したりといった、心の自由から生まれたといってよいでしょう。

でなければ、アニメファンである同級生から話を聞いて、そのファン自身を楽しませてやろうと思った小説家志望者です。

自分自身はアニメに詳しくないけれども、お友達の主宰するファンクラブ会報へ耽美派小説を寄稿した人です。それをお友達が拒否しなかったのです。

「個人誌」という形態が成立したのは、1985年頃のことです。

それ以前には、今でいう二次創作であるところの絵入り小説と、放映回ごとの感想文、独自編纂の用語集や、物語の背景となった歴史的事実に関する考察まで併載した「同人誌」が存在したものです。

その寄稿者は複数でした。小説がうまい人、絵がうまい人、考察記事が書ける人、歴史を調べることが得意な人が集まっていたのです。

それは確かに、アニメ番組そのものの熱烈なファンによる会報でした。

この「他人から見ればふざけているとしか思えない耽美化」と「まともな考察記事」が両立してしまうファン心理は、経験した人じゃないと分からないことなのかもしれません。

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