【BLと文芸10 ~創作物における自己愛。】

  03, 2015 12:30
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創作表現における自己愛とは、自分の顔が漫画みたいに可愛いと勘違いすることではありません。

性適合手術を受けたいと願うことでもありません。

ボウズ頭よりも豊かな長髪。無精ヒゲよりもスベスベの頬。首筋が野太いよりも細い。女性であれば、男性らしいものよりも、女性らしいもののほうが価値が高いと感じる。広くとらえれば、日本人が日本人選手の海外試合における活躍を応援する気持ちと同じです。

テレビを通じて試合観戦する人が、テレビ局へ電話して「試合中継を中止して、俺を取材に来い」とクレームすることはないでしょう。

【三島の炯眼。】

三島由紀夫は、昭和38年『第一の性』において、女性が歌舞伎の女形に代表される女性的な俳優を好む現象を挙げ、「男ならではの魅力と同時に、自分の女の反映を見て、ナルシスムを感じるらしい」と、控えめな表現ながら、的確に見抜いています。

その後、彼自身のナルシスムが暴走しちゃうわけですが……。

三島と同時代を生きて、彼の死から約10年後に、女性のナルシスム表現の横溢する男色物語という奇抜なものを目にした文芸派(たとえば寺山修司)は、「ついにこういうものが漫画になる日が来たか」という感慨を抱きこそすれ、「意味わからん」などと思うことはなかったでしょう。

【約束。】

いわゆる二次創作が、排他的にBLを追求したのは、いわゆるコミケを訪れた「少女」たちが「ここではBLを売る約束になっている」と理解したからです。

青果市場を訪れて「なぜここの女性は野菜ばかり売るんだ!? 精肉に感情移入できないのか!?」と叫ぶ人のほうが、どうかしています。

新参の「少女」たちは、次回から参加したければ、同じものを書くべしという宿題を与えられたと思ったから、他人の書いたものを見ながら「こなした」というだけです。

10年も前の漫画作品を熟読した上で、これを小説に翻案しようと思いついたのではなく、つい先日上梓された“同人誌”を見ながら、真似して書いただけです。

宿題をこなす人々は「なぜ先生はこんな宿題を出すのか。これが将来なんの役に立つのか」とは、あんまり考えないものです。

漫画が言い訳とされながら、小説として定着していることを疑うことさえもなかったのです。

【同人プロファイル2。】

BL登場人物が、肉体の構造・機能まで女性化していくのは、そのほうが読み書きする女性にとって理解しやすいからです。

それはトランスゲイの「男らしくありたい」という根源から発した自己表現ではなく……

「男性のプロが書いたものを参考に女性のプロが書いたものを参考に女性の素人が書いたものを参考に、より若い女性の素人が男性同士を書くという無理っぽい宿題を与えられたから、作っている内に自分らしさが出てしまった」

ということに過ぎません。

コミケに集まる人々は、どう考えても盆暮れ返上で練習に明け暮れる運動部員ではありません。ピアノやバイオリンのコンクール、ミュージカルのオーディション目指して練習に励む人々でもありません。

夜な夜な集合しては走りに行く人々でもありません。それよりもテレビアニメを見るほうが好きだったのです。キャンプ場に泊り込むアウトドア派でもありません。そんな暇があったら原稿を仕上げるのです。

ありていに言って、運動の苦手な「ぼっち」の帰宅部です。その心性からは、運動選手でありながら運動競技をせずに、せまい範囲の人間関係に拘泥する人々が描かれるのも当然です。

その肉体描写に、運動する男子の躍動感ではなく、恋する女性の感性が反映されるのも当たり前です。

BLが証明したことは、結局のところ創作物には作者自身が表現されるということに過ぎません。

【自己愛的他者愛。】

男性に女性的な性質を与えることと似たような例を挙げれば、アニメ番組には「金髪碧眼なのに日本人」という設定が頻発するものです。

異質な存在に、自分と同じ要素を与えて、親しみを感じやすくするわけです。

もともと憧れを感じている相手が「寿司だいすきです」と言ってくれると「良い外人さんね」となります。

もともと敵愾心を抱いている相手が「日本製品はすばらしいです」というと、「真似すんな」ってなります。

もともと可愛いので気に入っていた異性が女役を演じるのは歓迎だが、もともと違和感を抱いていた異性が女役を演じるのは「きもちわるい」というわけです。

ひらたく言うと「ただしイケメンに限る」って話です。イケメンも大変です。

【変化。】

ここから性愛の要素を省くと、スポーツ青年同士の心の交流を描いているのに、その心情が「彼が僕のことを一番に考えてくれているのが嬉しい」だの、「嘘をついても許してあげる」だの、まるで女性のものであるという、不思議な青春小説が生まれてくるわけですが……

それが男性監督によって映画化される時代が来たのですから、世の中ほんとうに変わったなァと感じられたのは、西暦2000年代に入ってからだったでしょうか。

あるいは、それは三島自身が男性ナルシスムの行き着く先の恐ろしさを、身をもって示してしまったことによるのかもしれません。

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