【BLと文芸12 ~ばらの下で愛を描く。】

  04, 2015 12:40
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いわゆる二十四年組による美少年趣味の作品が流行したのは、池田理代子『ベルサイユのばら』が大ヒットした直後からです。

オスカル・フランソワは、出生エピソードは別にして、初登場時から男装した15歳の近衛兵として読者の前に現れます。

男装の麗人、すなわち男役の少女の反対は、なんでしょうか。

女役の少年です。

いずれも、今よりも「女のくせに」と言われることの多かった時代に、女性を最も面白がらせる逆転劇という点で同質です。

じつは、男勝りな少女と女役の少年は、対立概念のようでありながら、どちらかを選ばなければならないというものではありません。

相反するようであるものが、じつは同じ価値観の中にいる。

こういう考え方は、ベルリンの壁が崩れて、資本主義と共産主義がじつは同じ大きな枠組みの中にいたことが示されるまで、理解されにくかったかもしれません。

宝塚版大ヒットの後で、男装の麗人の二番煎じを描いて笑いものになりたくなければ、同じ少女漫画という枠組みの中で、女役の少年に挑戦するのは賢明な選択です。

それは、ポストベルばら時代のヒット作を探る漫画家と出版社の、背水の陣というべき努力の結果だったのかもしれません。

【逆転劇。】

男性作家の打ち立てた純文学の型を踏襲して、中年男性の一人称視点から、驚嘆と愛着の対象である美少年の魅力を描き出すのが、1960年代の森茉莉から、1980年代初頭のポスト二十四年組までの、一貫した定型です。

中年男性のほうが、二十代後半の青年として描かれることが多いのは、当時の少女漫画において、現実には中年男性であるはずのスポーツのコーチなどが、大学を出たばかりの年齢に設定されていることと共通です。

彼らの目元がきらきらしいのは、無論、描いている女性自身が「そのほうが価値が高い」と思うからです。

少女漫画というのは、描いている本人は成人なもので、1970年代後半の二十四年組というのは、ちょうど二十代後半でした。

今すぐ自分自身が結婚しても良いような同世代の異性(しかも彼自身が女性ナルシスムの体現者)を主人公に、彼の口を借りて、もう一人の女性的異性への執着を語ったことになります。

と考えれば、わりと簡単に「理想の男性を自分の代役として立てた男女逆転劇」であることが、理解されるはずです。

【舞台化粧。】

なぜ男役が鞭を持った女性ではないのか?

鞭というのは馬具・武具であるという本質からしても、形状からしても、男性の象徴です。

鞭を持った女性というのは、部分的に男装した状態です。

舞台における男役というのは「皆さん、わたくし本当は女ですけれども、今から仮装いたします」と挨拶してから舞台上でメーキャップを始めるということは無いものです。

また、男役といいながら、頭を丸坊主にしたり、筋肉をつけることを第一の使命と考えたりしないものです。

それは三島が見抜いたのと同じ、最初から女性的な男性への自己愛的異性愛を土台にしています。

男役に長髪とアイシャドウを与えた魔夜峰央は、よくよくお分かりだったのでしょう。

逆に、女性自身の驚嘆と愛着の対象である美少年に女役を演じさせると思えば、女装や出産という極端なエピソードが好まれるのも首肯しやすいでしょう。

美少年型と(ある時期から)並行して存在する中年型も、中年男性に女役を割り振っただけのことです。お相手の青年が「一人称」です。

作劇に用いられた手法、物語の構造といったものは、書かれたものを素直に読めば分かるはずなんですが……

かつての研究者は、読みたくないので読んでいないものを解説しようとしたから、無理があったのでしょう。

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