【ソーシャルをセクシュアルにしたのは女性同人ではありません。】

  19, 2015 09:34
  •  -
  •  -

演奏家は「ここでおなじみの名曲を」と言っただけで拍手をもらえますが、創作家は「そっくり同じ話を書いたので、また単行本を買ってください」とは言えません。

永井荷風が愚痴った通りです。

だから、後の時代の作家になればなるほど、登場人物が少年だったものを中年にしてみたり、“攻め”だったものを“受け”にしてみたりと、アイディアにひねりを加えるわけです。

だから、新しい時代のものにバリエーションが豊富なのは当たり前です。

逆に、古い時代へさかのぼれば、アイディアの原型を見ることができるでしょう。化石の特徴から前後関係を推察するのと同じことで、科学的な手法のはずです。

だから、BLという分野が何を示しているのか、本質をつかみたければ、1975年以前の作品を文芸批評すればよろしいです。

なぜ1975年が区切りになるかというと、その年に「コミケ」が始まっており、ここで盛んに情報交換が行われたから表現が多様化したと考えられるからです。

尾崎紅葉の時代(以前)から、出版界の青田が同人界なのは当然です。プロ作品の背景には同人界の動きがあります。

でも、それが1975年以降ほど盛んでなかった時代に、それぞれに思いついたことを散発的に発表していた創作家に共通する技法や心性が認められるなら、それが流儀の基礎ということができるでしょう。

とはいえ、素人さんが秘蔵している(または既に破棄された)大学ノートを一冊ずつ確認するのは現実的でありません。

したがいまして、市販されたプロ作品を批評することになります。これなら、一般読者がそれぞれの作風を確認することも容易で、公平といえるでしょう。

だから、1960年代の森茉莉や、1970年代初頭の萩尾望都や、1975年の青池保子の作品を較べた結果、「男性一人称視点から、より若い男性への関心を描いたもので、もともと男性が書いた文芸に準じている。女流が男流に擬態していると考えることができる」といえば、それで基本的な分析は終わりです。

斯道の第一人者と見なされる竹宮恵子に稲垣足穂への言及があり、仲間内と見なされる木原敏江が明確に森鴎外『ヴィタ・セクスアリス』を引用している以上、発想元となったのは、現代のゲイの現実ではなく、「若衆の情け」という伝説として美化して伝えられてきた、ストレート男性間におけるパワハラです。

師匠と弟子、先輩・後輩の立場の差を利用して、ホモソーシャルをホモセクシュアルにしたのは女性同人ではありません。歴史上の実在男性が自分でやってきたことです。


【SF的転回。】

そのつもりのなかった男性が、男性として一人前になるための修行の途中で、女役にされてしまう。

「もし時間旅行の途中で事故が起きたら?」「もし日本が沈没したら?」

あらゆる“if”にタブーを設けず、想像力の限界に挑戦するSFを、女だてらに読みこなす人々が、この逆転劇に意欲的に取り組んだのも、けだし当然です。

また性的被害を面白がるのですから、被害者に感情移入していないことも明白です。

それは男性の眼を通じて、若衆の立場にされた側の男性を客体視する行為です。


【愛でるのは当たり前です。】

昔の女性論客は、少年を「愛でる」などと言いました。

が、それは分かりきっています。ストレート女性が若い異性を可愛がり、熱視線を送るのは当たり前です。

ポイントは、男性の眼を持つことを仮想体験することです。

男女同権とは、男性と同じことを女性もやらせてもらえることでした。男性の眼を持つことを、ウーマンリブ時代の女性が「意気に感ず」と思ったのなら、当然でしょう。

すでに森茉莉の時代(1960年代)には、もう女性は「ストッキングとともに強くなった」と言われていたはずです。

歴史に問えば良いのです。過去を知ろうとすれば良いのです。


【基礎が足りません。】

同性愛者の自覚がなく、「男同士は異常だ」などと言いながら、親密になってしまう。必ず男女の性愛行為を模倣する。より女性的な若年者が女役になることが基本的に決まっている。

女役は、いずれは男らしさに復帰するのではなく、よりいっそう女らしくなってしまう。原因不明の病を得て、急逝してしまう。

このようなBLキャラクターの特徴が古典文学に由来するものであることを見抜けなかった人々は、基礎教養が足りません。

教養のない学者が何を騒いでいたかというと「やおいってあるよね~~」「あれって変だよね~~」「俺もそう思う~~」という噂話に興じていただけです。

ゲイの実態について勉強の足りない「少女」が、竹宮恵子の真似をして面白がっていることを面白がった人々も、不勉強です。


Related Entries