【BLとフェミニズム ~非当事者意識。】

  20, 2015 09:43
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西村寿行の小説に、潜入捜査官として会員制の乱交に参加した女性が「大勢の男性を受け入れて快感を覚えるのだから、やはり女は生まれつきマゾなのだわ」

と短絡的な一般論を述べる場面があります。

でも、もしこれが食品だったら? 

上手に調理された食品を次々に提供されて、お腹いっぱい良い気持ちというのは、マゾヒズムではありません。

あえて創作物を真顔で追求すれば、行為の乱暴な男性・下手な男性は、他の参加者から苦情が挙がって、二度と秘密の会合に呼んでもらえない可能性があります。

ということは、参加者は遊びなれた「通」ぞろいです。

エスコートの上手な男性陣と共に楽しいひとときを過ごしたと考えれば、パートナーを変えながら何曲も踊ってきたというのと同じことで、これもマゾヒズムではありません。


【被害者意識。】

性行為を描写する男性作家自身の中に、男性を受け入れるのはおぞましいことであるという(ストレート男性としては当然の)心理があるとき、「そんなことの好きな女は、みんな変態にちがいない」という結論が生まれるわけです。

でも、多くの女性が生まれつきマゾヒストではないからこそ、成人男性向けの娯楽作品(とくに漫画・映画)を見たとき「まァいやらしい。きもちわるい。男ってなに考えてるのかしら」と言うわけです。

当事者意識とは、被害者意識です。

海外で日本人が暴力や差別を受けたと聞かされて「特別に許しがたい」と思うのであれば、自分が日本人である証拠です。

あるいは、留学経験や親戚がいるなどの理由によって、親近感を抱いている結果です。

悲惨な事件がナショナリズムの高揚に利用されることがあるのも、それによって自分が日本人(の味方)であるという自覚が深まるからです。

もし、一刻も早く男性本来の逞しい体に戻りたいと願うトランスゲイ男性であれば、女のような顔・虚弱な体つきをした男性が性的悪戯の被害者になるという話は、面白おかしく読んではいられないでしょう。


【非当事者意識。】

と、ここまで来ると、BLというのは、女性読者が作中の被害者である男性キャラクターに感情移入していないことが分かるはずです。

それは、女性が加害者男性の勝手気ままな気分を味わうことを主題にしていることが知れるはずです。

それは女性が自分好みの男性を(男性の眼を通じて)客体視する仮想体験の一種であって、女王様プレイの一種とも言えるでしょう。

そう考えれば「好きなキャラを受けにする」のも当然です。

かつて「女性は受身の存在に感情移入するはずだ」と考え、BL(当時はやおい)という創作物を前に首を傾げた人々は、女性は生まれつきマゾであるという固定観念に支配されていたのかもしれません。


【成人意識。】

実際には、どうやらBLというのは、男女逆転劇の一種ですが、ではなぜそれが未成年者に限定された娯楽なのか。なぜ少女の内面しか表していないのか。

1960年代にフランス男性同士を夢想した(と伝えられる)森茉莉は、離婚後の独居女性でした。

1970年代の二十四年組は、何度も言いますが、二十代後半の独身女性でした。

とくに男性から資金的援助を受けずに生きている女性から、男性(の表象)をおもちゃにするという発想が生まれやすい……とも限りません。

独身の創作家は、その作品によって生計を得ようとするために、突飛な表現にも果敢に挑戦するから目立ちやすいだけで、いっぽうには同じ独身でありながら伝統的な表現を守ることで、かえって目立つ女流もいるわけです。

そしてどちらにも、さまざまなフォロワーがいると考えるのが、むしろ常識的でしょう。


【BLの権利とゾーニング。】

BLの権利とは、女性による男女逆転劇の一種と見切った上で、女性であることを理由に自由な発想と表現が許されないのは不公平であるという、この一点にかかっているだろうと思います。

しかし、下半身の描写は未成年者には相応しくない。

だから、未成年女性のためにはジュヴナイルとしてのBLが適切だが、成人すれば限定解除。

これが、最も整理された話であるはずです。

これをすべて未成年者のものだと言いくるめたかった人々は、何がしたかったのか。

やはり非婚であることをもって、自分自身を少女だと主張したかったのでしょう。

それを横目で見て「あ~~あ」と思った同人が、「私たちもダメな少女ってことね」という皮肉を放ったとしても当然かと思われます。



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