【フランスの論理、日本の論理。】

  01, 2015 09:57
  •  -
  •  -

『ベルサイユのばら』がフランスで実写映画化されたとき(1980年代)、オスカル・フランソワの父親は、原作ではわりと素敵な男性として描かれているのですが、横暴でいやな男に変更され、母親は出産の際になくなってしまったことに変更されました。

八番目に男児が生まれる望みが断たれたからこそ、七番目の女児を男児として育てるということでなければ、理屈が通らないから。

また、女児を男児として育てることを一人決めする男は、エゴイストに決まっているから。

撮影に立ち会った池田理代子は、現地の女性脚本家から、そのように変更点についての説明を受けて、「フランスでは女性もこれだけ論理的に考えるのか」と感心したそうです。

逆に言えば、日本の女性は(少なくとも池田は)あんまり論理的でなかったわけです。

原作が大流行した1970年代当時の日本女性にとって、男として育てられ、高い教育と職業を与えられることは、誇りであり、憧れであり、そのような人生を与えてくれた父親は恩人だったわけですが、1980年代のフランス女性にとってはそうではなかったのです。

とはいえ、フランス女性が「女の子は優しく慎ましく育てられて、早く嫁に行くべき」と思っていたのでもないでしょう。

高畠勲『かぐや姫の物語』は、女の子の幸せを最大限に考えてやったつもりで、自分の出世欲につき合わせてしまっただけという男の物語でもありますが……

フランスの女性脚本家は、女児として育つことを、そのように男性の価値観によって人生を左右される屈辱としては捉えていなかったことでしょう。

オスカルは武門の後継者として育てられることに決められたのであり、生まれながらにして職業選択の自由を奪われています。個人としての決定権を奪われています。

男子か女子か以前に、フランス人にとって、これは最も許しがたいことであるかもしれません。

もっともフランスも良いところばかりではなく、表現の自由を最大限に尊重する国が、移民の人生の自由を保障しているとは言えません。

かといって、誰しも自分の子供が一番可愛いのも当然です。

本当は移民になるのではなく、自分の国を豊かにする努力をしてほしいところでしょうが、すでに(何千年も前に)収奪が行われ、砂漠化した国はどうしたら良いのか。

もし、この答えの出せない問題に、日本が金と技術を出すことで解決の糸口を与えようとするなら、たいへん結構なことだろうと思います。

ややとりとめなく。

Related Entries