【会田と田亀。】

  17, 2015 11:01
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ハイアートがサブカルを要素として取り込んでおいて、批判されると漫画を言い訳にするのは不愉快きわまる。

会田誠の展覧会が物議をかもした時に田亀源五郎が言ったことが、正鵠を射ていると思います。

この場合のハイアートとは、特権的な富裕層が支える文化とか、一般に「高級」と見なされる美術品とか、そういう意味です。

田亀は逆にサブカルへアカデミックな技術(ルネサンス的な正確な人体表現)を取り込んだ人ですが、それがかえってアカデミズムを刺激し、批判を生む恐れがあるのも承知で、つねに背水の陣を張っているわけです。

ただし、会田自身はあれこれ言い訳をしなかったと思います。したのは美術館だったはずです。

会田の作品が幾らで取引されるものか存じ上げませんけれども、希少性の高い作品ですから、一万円ポッキリってこともないはずで、彼自身はその作品を愛好する御仁へ直接売ってやることで、一度に数十万・数百万円(ドル?)を受け取ることができ、生活には困らないはずです。

熱心な愛好家だけで組織される品評会や専門店というものは、どこの業界にもあるわけで、その内部でだけ廻っていてもよかった作品を、広く一般に公開して、入場料という利益を得ようとしたのは美術館です。だから問題になるのは美術館の態度ということになります。

ゾーニングすれば大丈夫だと思うなら徹底的にやればよかったことです。営利行為の防衛策として「表現の自由」を盾に取るなら、それを徹底すればよかったことです。

森アーツも、最初は「自由」と言っていたはずですが、途中で変節したのが残念だったのです。たぶん批判の強さに耐えかねたということだったのでしょう。

でも正式に告訴されたわけでもなく、「事件の犯人」でもありませんし、たとえ事件の犯人であってさえも、人権が守られる措置は取られています。

それに対して、私的制裁を加える社会のほうは、どうなのか。憲法と法律に違反していないと言えるのか。

これについて法律家に尋ねれば、おそらく興味深い答えが返ってくるでしょう。彼らは遵法精神の味方であって、興奮した一般市民の味方ではありません。

だから「厳密に」考えていけばいくほど、事態は沈静化していくということがあります。だからこそ、最初からあまり興奮しないのが「大人の対応」と言うのでしょう。

大人になるということは、ずるいことをするという意味ではないですし、合理的であるということは「筋が通る」ことであって、打算的であるという意味ではないです。



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