映画のゴッドファーザーはアンチヒーロー。

  25, 2012 16:53
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清盛くんのイメージは「平安のゴッドファーザー」らしい。そしてアンチ・ヒーローとして描かれた男を描き直したかったらしい。

ゴッドファーザーってのは本来「名付け親」にすぎないけど、その人脈による巨大な一族のボスを描いたコッポラの映画を指すなら、ありゃマフィアであって、まともなヒーローではない。

子供の夢が「マフィアのボスになりたい」では困る。「レストランで食事中の対立候補の脳天をぶっぱなして天辺に立つ」が幼稚園のお絵かきでは困る。あの映画は1972年。ついでに言えば若き銀行強盗を描いた『俺たちに明日はない』は1967年。暴力映画、犯罪者を主人公として共感的に描いた映画が流行った頃。ついでに言うと『タルカス』というELPのアルバムは、1971年。

あのドラマ全体に「今の今、これを描く必要があったのか?」って言いたいようなノスタルジーな感じが漂うのは、そういうわけ。主人公の反抗的な青春時代から描き始めたのも道理で、企画自体が制作陣の青春への捧げ物。しかし何かがズッこけている。

映画『ゴッドファーザー』の冒頭は、マフィアのボスの娘さんの結婚式。何も知らなさそうな清純なお嬢さんが白いウェディングドレスでお嫁入り。でもその裏で、パパは他所のチンピラをぶちのめす相談をしている。被害者である同郷人の涙の訴えに「仕返しにうちの若いものを貸してやる、あいつなら『ほどほど』を心得ているから」っていうんだけど、これがとんだ武闘派の巨漢。どのていどに“ほどほど”の血の雨が降ったのか、その恐ろしさは観客の皆さんのご想像にお任せします……

民族的マイノリティとして教育も低く、ろくな働き口もないイタリア移民・シチリア移民が同郷のよしみで結束する。差別され、暴力に訴える他ない者が、その暴力で対立者を蹴散らし、権力者に要求をのませ、のし上がる。
実力次第でなんでもありな「アメリカン・ドリーム」の皮肉、キリスト教精神で結束しながら他をしいたげるという皮肉を描いたわけで、成功していく様子を描きながら物悲しい感じが漂うのは、そのせい。

この「成功ゆえの物悲しさ」が日本では「諸行無常」だったわけで、“絵巻物ではない血の通ったドラマ”とはいっても、絵巻物にも血と涙は通ってるわけで、先人の培った文化・情緒はやっぱり無視してはいけない。清盛くんが出世していく様子がなんだかおめでたい感じに描かれてしまったのは方向違い。

日本では「成功の皮肉」ってのがあまり描かれない。「悪いヤツほどかっこいい」ってことがあまり描かれない。

「若い時はヤンチャでも猿でもエラくなればいいんですよ」っていう具合で、出世はもれなく良いこと・めでたいことのように描かれる。勝ち戦は勝ち戦であり、えいえいおーであり、恐ろしい集団暴力が遂行された……って描き方はあんまりしない。これからどこへ行くのか……って不安な感じもあんまりない。マッカーサーを米大統領にってくらいで、エラい人に支配されたがる。儒教精神で「支配者は仁」て考え方があり、エラくなった人は「立派な人」だ。

しかし平家は「立派」だったのかというと、何度でもいうけど庶民のために都を衛生的に改修してやったとか、全国の寺社を建て直して民衆の心の平安を願ったとか、学問所を設立して科挙を実施し、自分の配下として取り立ててやったとか、宋に若者を派遣して人材育成につとめたとか、小作人を自作農にしてやったとか、そういうことじゃなかった。信長とちがって自由な商業を奨励したのとも違う。信長は為政者だったが清盛は自らビジネスマンだったから対立者に容赦なかった。ていうかやっぱり為政者じゃなかった。仁でもなかった。そして、それでよかった。

彼らはただただ「我が一門」として、主に藤原家の宮廷支配に対抗していっただけだ。金融業にも手を染めたから、多くの貴族を破産もさせた。入水も身売りもあったはずだ。だから「平家ゆるすまじ」という反乱勢力が悪役のように描かれる筋合いも必要もない。アンチ・ヒーローを描き直すといったって、それを善として、他を悪として設定し直す必要はない。新興勢力と、伝統を守ろうとする者との間にとうぜん起こるべき、それぞれの先祖の誇りをかけた防御戦であって、価値判断もステレオタイプな善悪のキャラ立ても必要ない。

“ゴッドファーザー”のシビアさ・皮肉が描ききれなかったのは、男性キャラがいずれもキレやすく、すぐにピーピー泣くせい。そしてホームドラマ部分が脳天気に過ぎ、「この裏で恐ろしいことが」「いつまでもこんな幸せは続かない」という背徳感・不安感がなく、「平和が一番」という女性目線になりきってしまっており、それが歴史・政治史ドラマとしての面白さを削いだから。そして中途半端な悪役キャラ設定がなされていて、子供っぽいから。

要するに家族向けに可愛らしく面白おかしく描きたかったのか、大人の男性向けに和製ゴッドファーザーを描きたかったのか分からない。男の美学は「泣くに泣けない」ってところで、泣いても許されないってことで、涙をこらえてるってところだ。

男性キャラのキレやすさがドラマ的に良いほうに作用して異様な盛り上がりを見せ、それはそれで出来が良かったっていうのが第1部の宮廷メロドラマ・パートで、実は鳥羽院がなくなるまでの間は比較的数字がよい。

宗子さんを始め女性キャラは割と一貫した人格として描かれており、璋子と得子のように「どっちが善/悪」というだけでは区別できないなりに、キャラ立ちしている。

女性向けエンタメ、ホームコメディ、いびり合いのメロドラマを描くとうまい人が「不撓不屈の反抗的な青春」といわれて少年マンガの主人公のステレオタイプを引っ張ってきたら世界観との折り合いが悪かったってところか。

逆にいうと、やはり歴史劇にはそれなりのツボや作法のようなものがあり、それが「メソッド」として確率していない、教育されていない……ってのが最近の大河がガタガタする理由のような気がする。

ここんとこちょっと方向が変わってきたので地味に楽しみ。
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