清盛、お前は棟梁に取り入るために盛康が忠盛からもらい受けた子なのだ。

  27, 2012 18:04
  •  0
  •  -
乳父になるってそういうことよね……

清盛くんが街で変な子に嫌なことを言われたなら、まずは盛康んところへ飛んでいって「うちの棟梁は悪いヤツなのか」ってきいてみるべきだと思う。「わしは盛康に教わった弓馬の技を誇りに思うぞ」って言って、ご老体を感激させてやれ。

『仁』では「今なら抗生物質で直せる病気が当時は治せなかった」っていうのが肝だった。『清盛』は現代人がテーマパークに遊びに行ったようなものだ。当時ならでは感の表現は美術方面に集中しており、生活習慣面・精神面ではあんまり表現されていない。本当にテーマパークなら、背景や衣装がリアルにできているほうが遊ぶほうは「おお~~」と楽しめるので、それだけでいいんだけれども。

フィクションは「この世界ではこうです」「この当時はこうでした」という約束・歴史的事実の説明があるものがいいのか、それとも、その世界なりの約束事・史実を無視して現代一般人の感覚で「なぜ戦うの!?」「本当の親を教えてくれ!」と叫ぶほうがいいのか。

もちろん観るのは一般人、マニアぶっても大抵は一般人。実際に戦場へ出たり、マフィアやスパイだったりした人は、そんな世界の「リアル」な話はあまりしたがらない。そしてメンタリティの歴史は証言を集めるのが難しい。大人の都合で人生を左右された当時の皇子たちの里心がどんなものだったかも分からない……

(何もかも飲み込んで風景を歌にうたっていた、ってことも考えられるあの頃)

・乳母とは(日本史用語の基礎知識)※ さくっとまとまってるように思ったので貼っておきます。
養君にみる子どもの養育と後見(『史學雜誌』に掲載された論文の梗概、英文。本文は有料)

現代では「保護者」といえば大抵は父親の名前を書類に書く(父親がいないから母親の名前を書くことはあるが、平和裡に同居している戸籍主である父親がいるのに母親の名前を書くってことはあまりない)けれども彼はまた大抵のばあい文字通り家屋の中に子供を「保護」しているだけであって、子育ての具体相にはあまりタッチしない。「おかゆこぼしちゃったーー」とか「おしっこ出ちゃったーー」とかそういうのにはあまり対応しない。

研究者陣も「子育ては女性がうまくやってくれるだろう」と思うのか、「誰が誰の養育係だった」というだけで、実際に何をしていたのか、あんまり書いてくれない。

フィクション的には、たとえば美福門院は自分の手で「いっぱい出ましたねーー」と言いながら重仁親王のおむつを替えてあげたのか、藤原宗子さんは重仁親王のおかゆを自分で作りに台所へ降りたのか、「あーーん」と食わせていたのか、「ほらほらこぼさないで」とかやっていたのか、それともそういうのは全部下女に任せて、自分は横に座って「きれいに拭いて差し上げなさい」など監督だけしていたのかってあたりが知りたい。常識的に後者だとは思うけれども。

「もう寝る時間ですよ」とか。「もう一回お話して」「なんのお話がよろしゅうございますか」「おののたかむらじごくめぐり」「むかーーし昔」とか ……。

夜中に起きて「おしっこ」とか。女房や下人が大勢起きて、一人が「樋箱(おまる)を持て」などと指示して、一人が寝間着の裾を持って差し上げて、一人が「しーー」って受け止めて、一人がそれを捨てに行く……とか?

子育ての具体的な仕事といえば「行儀よく食べさせること」「排泄の世話」「風呂・洗面など清潔を保つ作業・着替え」「遊んでやること」「危なくないように見張ってること」「できる範囲で勉強をみてやること」「寝かしつけること」だけど、それぞれ誰が担当したんだろう……今のママと同じように宗子さん自ら「ほらほら」と皇子の後を追いかけて歩いたのだろうか。

身分が全体に少し下がって、中流貴族・武家の若様を家人が預かった、というような時には、家人の夫人が手ずから煮炊きしたものを若様に「あーーん」してやっていたような気がする。その場合、若様はどこで食べていたんだろう。寝起きしていたんだろう? 棟梁夫婦と一緒に主屋で? 家人専用の離れに居候していた? 朝おきたら乳母に「おはよーー」して、身綺麗にしてから主屋に住む棟梁夫婦に「お早うございます」と言いに行くとか?

乳父というのは乳母の夫だが、これも本人の身分が高ければ、ぶっちゃけお金を出すことが一番に期待されており、「装束を支度してやる」「有名な学問の先生につけてやる」など後見人的な役割が主で、身分が下がるほど「おんぶしてやる」「竹馬をつくってやる」など現代の一般人のおじいちゃんが孫を預かる感じに近くなっていったのだろう。



清盛くん:1118年生まれ。12歳でご元服(賭場で遊んでちゃいけません)、ドラマでは14歳で北面入り(顔を洗いましょう)
忠盛パパの活躍 ~ 白河院の落胤だったとして、どっちみち忠盛が乳父に選ばれていたんじゃないかと思う今日この頃。

後白河帝:1127年生まれ。清盛くんの8つ下。鳥羽帝の第四皇子。雅仁親王。1155年即位。

※ 以下、皇子がたの名前の後の( )内の数字は、お生まれになった年の清盛くんの年齢。

近衛帝:1139年生まれ。(21歳) 体仁(なりひと)親王。ナリコさん待望の男の子。生後2年で即位。満16歳で崩御(´・ω・`)

重仁親王:1140年生まれ。(22歳) 崇徳帝の第一皇子。生後すぐに「おじいちゃんの後妻さん」であるナリコさんの養子になる。乳母は宗子さん。1こ上のお兄ちゃん体仁親王↑が近衛帝として即位すると、2歳で親王宣下を受ける(受けるように取り計らった人がいるということですね。その前のお名前が分かるといいです。宗子さんは彼をなんと呼んだのか。「重仁さま」じゃないよね) 10歳で元服。15歳のとき叔父さんが即位しちゃって、立場のないことに。満22歳を迎えずに病没(´・ω・`)

二条帝:1143年生まれ。孫王。守仁親王。雅仁親王の第一子。ナリコさんに育てられた。ちっちゃい頃は仁和寺でお勉強してた。12歳で呼び戻されて親王宣下&立太子、13歳でお嫁さん(1141年生まれ。ちょっと姉さん女房。ナリコさんの実娘。父親は鳥羽帝=親王自身のおじいちゃん。……(´・ω`・)エッ? おじいちゃんの娘って……お父さんの異母妹=叔母さん)をもらう。22歳で病没。

合掌。

仮に崇徳帝が白河院の子だったとして、(それを知った上で)重仁親王から鳥羽院をみると、「お父さんの異母兄」つまり伯父さん。璋子さん系統をさかのぼると、「祖母の二番目のご主人」で、どっちにしても「父の養父」であり、おじいちゃんには違いない……

重仁親王から体仁親王をみると、「おじいちゃんとおじいちゃんの後妻さんの子」だから、お……叔父さんでよろしいのか。1コ上の叔父さん。自分が「おじいちゃんの後妻さん」の養子になったので(それはおじいちゃん本人の養子になったことを意味しないのか)1コ上の叔父さんは、僕のお兄ちゃんでもある。

重仁親王がお生まれになったとき、宗子さん自身は、末っ子(頼盛)がすでに7歳で、本人が36歳。当時の年齢は今の平均的なイメージ+20歳増しくらいでいいので、ママの代わりというよりおばあちゃんが孫を預かったような感じ。もちろん乳を飲ませるためではなく(そのための女性は別にいたのでしょう)住み込みの家庭教師のようなものだったか。ロッテンマイヤーさんみたいな。

このとき清盛くんはすでに22歳。重仁親王とリアルに乳兄弟(義朝&正清のような)って感じより、彼には既に重盛くん(親王の2歳上)・基盛くん(親王の1コ上)が生まれている。「おばあちゃまがお勤めしている美福門院さまの御所へご挨拶にいきましょう」ってことが可能だったなら、(あるいは親王を六波羅でお育てしたなら)重仁親王と体仁親王・重盛くん・基盛くんは一緒に遊んだかもしれない。宗盛くんは重仁親王より7歳下なので「お兄ちゃんたち、待ってーー」って感じだったかもしれない(妄想中)

子供だから自由だったのか、子供だから不自由だったのか。当時の子供のリアリティ。

そして重仁親王は、弱冠15歳のとき「お父さんが僕を次の帝にするために、1コ上の叔父さんであり(たぶん)一緒に遊んで育ったお兄ちゃんでもある人を呪いころした」と噂された。しかも噂の出どころは僕自身の養母さまである可能性がある。養母さまと一緒におじいちゃんに告げ口した人は、僕と僕の本当のお母さんを、自分の娘のライバルだというので嫌っている」

で、「おじいちゃんが告げ口を信じてものすごく怒って、僕の代わりに他の叔父さんを帝に選んじゃったので、お父さんがものすごくヘコんだ。僕はもう身の置き所がない。なんのために生まれてきたのか分からないといえば僕のことだ。僕はいったい誰なんだ」

事情を伝え聞いた17歳の重盛・16歳の基盛・8歳の宗盛くんたちはどう思ったのだろう、など。8歳じゃまだ分かんないか……それより親王ご自身はどこまで状況を聞かされていたのか。

親王は後白河天皇の即位が決まった時、具体的にどこにいらしたんだろう。どの部屋で起きて、誰の顔を見て、どこでご飯を食べていたんだろう。そういうことが気になる今日この頃です。「美福門院の養子」としてまだ彼女と同じ屋根の下に暮らしていたんじゃ針のむしろだよね(´・ω・`) 
親王は10歳でご元服なさっている。なさって……どちらかへ移られた? 

そして宗子さんは重仁親王が13歳のとき池禅尼となった。親王が大人になってからも側近として使える乳母・乳父は多かったようだけれど、宗子さんは具体的なお世話のお役からは退いたのだろう。なお親王が9歳の年に家盛くんが亡くなっている。

ドラマでは重仁親王はなんとなく崇徳院と一緒にいたけど、ナリコさんの養子だったものが戻ってきたのか。元服して自分の屋敷をもっていたのか。やはり「誰から誰を訪ねて、御所同士の間が徒歩で何分くらい離れていて」という描写がないのは、はっきり分からないからでしょうか。「もうすぐ即位できるぞ」と(いったん手放した)息子と手を取り合う姿が崇徳院の脳内イメージなのか、和歌や使者を通じて相談していたことのイメージ表現なのか、新院が親王の部屋を訪ねたのか、親王を呼びつけたのか、よく分からない。

保元の乱にまつわる人間関係は、「説明された上で理解したくない」ていどのもので、とくに白河院の女性関係の乱れにまで遡って説明しはじめると、更に聞きたくない感倍増。
なにしろ早世された帝・親王がたがお気の毒。崇徳帝はぜんぶ背負って変化されたのだと思う(´・ω・`)

むしろフィクションだったらここまでややこしくしない

映画・ドラマの中で「見ていれば分かる」ように描くことは非常に困難だと思う。そこに摂関家が絡んだ日にゃ「忠通さんちょっと黙っててくれ」と言いたい。

今年の大河は「保元物語・平治物語・平家物語を(公卿がたの日記をまじえて)一気にまくる企画」なので、確かに短い尺ではできない。よく取り上げたとは思う。キャスティングがよろしかったのでイメージしやすくなったのは有難い。
が、たとえば清盛の白河院落胤説は、むしろ「忠盛が頭のいい人だったので出世できた」ことを印象づけるための後づけエピソード感も濃厚で、「忠盛の話」だけしているぶんにはいいんだけど、清盛の話として流れに乗せちゃうと収集のつかないことに……っていうものだったと思う。まぜるな危険みたいな。

ドラマといえば、「忠実ができのよい弟ばかり可愛がって、兄ちゃんは面白くない・焦ってる」という描写はもっと必要だったと思う。

そしてたぶん、ナリコさんが成り上がっていく姿を主人公に宮廷ドラマとして集中させるべきだったような気がする。タイトルは? 『おんな保元物語』……

「養女にした上で嫁に出す」「養子にした上で乳母にまかせる」(あるいは任してもらう)のは当たり前で、清盛くんが「取り入るためにもらい受けた子」であることを直ちに「悪いこと・恥ずかしいこと」という価値観で受け留めてしまったことがものすごく浮いている。盛康に育ててもらった7年間より街でばったり出会った兎丸の一言に重きを置く純情っぷり。

「当時は養子をやったり取ったりすることが普通だった」ことにしないと、他の家がすごい勢いで養子をやり取りしていることがイメージしにくくなると思う。理解をさまたげると思う。あるいは他の皇子・姫たちとともに「皇族・貴族に生まれたばっかりに」っていう悲哀をもっと味わうと、まとまりが良かったのかもしれない。(でも庶民も養子とか里子とかふつうだったと思う)

清盛くんが同じ年頃の武士仲間といる時だけは、出生の不安定さを忘れることができる……猫とたわむれる横顔に漂う一抹の寂しさ、恋をしても受け入れてもらえる自信がない、存在の不安みたいなものを表現できなかったのは、もちろん俳優が「笑いが目的」と思い込んだことと、音楽の選び方・構図の取り方のせいじゃなかったかと思います。
Related Entries

0 Comments

Leave a comment