『悪魔の花嫁』の美しき不毛。

  12, 2015 09:31
  •  -
  •  -
原作者は不思議な才能の持ち主だな、と思います。

一話完結形式で女性の悲哀を描かせると上手いのですが、もっと大きな構想を用意することも、なんとか伏線を回収して着地させることもできないのです。

シリーズ構成に長けた男性の監督(漫画だから編集者)の采配のもとに一話ずつ任せてもらえば才能を発揮できるのかな、と考えると、いかにも女性的なのかもしれません。

1960年代以来、日本の少女漫画にはヒロインの相手役として金髪の美少年が登場していました。

そこへビョルン・アンドレセンの麗姿が紹介され、「本当にこんな男の子がいるんだ!?」というので日本中が(いや世界中が)美少年ブームに沸いたといってよろしいでしょう。

沸き立つ海の泡から生まれたのは、ふつう若い女性の姿をしたヴィーナス(というかアプロディーテー)ということになっていますが、この物語では双子の美少年も生まれたことになっています。

BL派だったら「じつはアプロディーテーは美少年だった」とやってしまうところですが、そこは女性のドラマを描きたい池田悦子。

美しすぎる兄妹は他人に関心がなく、互いに惹かれ合い、神罰を受けて醜い姿となります。美少年とは不毛で悲しい存在だ、という女流意識の表れでしょう。

で、話は終わっちゃうのです。

物語は、たとえばヘーラクレースのように、デイモスが正しい神に戻るべく修行して、最後は星座にしてもらえたという結末を志向していません。

当然、最後の試練に立ち向かうという山場もありませんから、似たような話がいつまでも繰り返されるわけです。これ、じつは言葉の真の意味で「山も落ちもない」のです。

手塚治虫に代表される男性創作者の考える「山あり落ちあり」の正しい物語が、最後の試練を乗り越えて一人前の男となり、財産と配偶者を得てめでたしめでたし……というものならば、女性はその逆を行きますわ、というのは確かに女流の自尊心の表現ではあります。

ただし、それに代わる「落ち」を見つけることはできません。

恐怖と裏切りの神となった若者は、みずから妹への約束を裏切り続けますから、話は終わりません。

彼は女性たち(それも日本人)が社会進出しようとして挫折する姿を冷たく見守り続ける不思議な守護神となります。

【作家の心。】

もともと、アプロディーテーの分身として設定された彼は、女性の影であり、女性の陰の部分を統率する「神」なわけです。

妻として、母として、一家の長老として、豊穣儀式をとりしきる「おばば様」であれば、太陽であった元始の女性の理想像といえるでしょう。

でも現代の若い女たちは、古い共同体から独立し、もっと広い社会で活躍したいんだけれども、実力不足なので男を利用したり、おなじ女性をだましたり、だまされたりする。

作家というのは、作家として独立している場合、OLではありません。起業家でもありません。女優として男たちを手玉に取ろうというのでもありません。

そのような世の女性たちの姿を、一歩はなれたところから冷たく観察する存在です。

ねじれた角と黒い翼と鉤爪の生えた足を備えるデイモスの姿形は、サバトの主宰者であるバフォメットを基にしていますが、彼の周囲で女たちが乱れるということはありません。

大地の豊穣を約束する太古の神のゆがめられた姿であるバフォメットから、性の要素が削除された格好で、中性ともいえますが、あるいは長い髪で女性性を、たいらな胸で男性性を表現した、少女漫画で許される範囲の両性神といったほうが良いかもしれません。

澁澤龍彦が西欧への憧れと反発心の両方をもって紹介したキリスト教の暗部が、ここに至って女流の奇妙な自尊心の表現となったのです。

人間にも悪魔にもなりきれない男は、世間並みの女でも漫画の神様でもない作家の心の友となります。

【内的差別の克服。】

読まされたほうの少女読者は「私、早く悲しい大人の女性になりたいわ!」とは申しません。レディースコミックの走りとも言えるのですが、この手の表現は女性差別の内面化を助長します。

連載誌『月刊プリンセス』では、巻頭に青池保子『エロイカより愛をこめて』が掲載され、巻末にこの作品が来るという構成が多かったように思います。

ウーマンリブの名のもとに女性性が否定された時代、女だてらに青池が余裕をもって描いた男性キャラクターの都市や大地を駆けめぐる活躍が太陽なら、デイモスはちょうど月に当たる存在として、樹上から冷たい光を放ったのです。

美奈子じゃないとこがミソです。

ここでジェンダー論の出番。

女性というのは、なにも生まれながらに卑劣な精神を持っているわけではなく、男性からそのような「イメージ」を与えられたから、自己暗示にかかっているだけである。

この発想の転換によって、女性差別の内面化を克服していくことは、やっぱりその後の女性が活躍できる社会の確立にとって、重要だったと思われます。

いわゆる同人の中には、いわゆる「やおい」についてあること無いこと言われた恨みから、フェミニズムに拒否反応を見せる人もいるのですが、生物学ではなく文化的に規定された性(を覆すことが可能だ)という考え方は、やっぱり画期的でした。

確かにフェミニズムの「女性にもっと自由を!」という(正しい)掛け声によって、本当に女性がワイン醸造家になったり、航空自衛隊の隊長になったりする時代が来たのです。

もはや「卑劣で悲しい女性」という物語が受け入れられる世の中ではないのかもしれません。

そして、女性はそういう世の中を実現するために頑張って来たのであるはずです。

否定されるために存在した物語。

1975年という、日本の女性解放の歴史の過渡期の一点でのみ成立し得た物語。

誰をもめとらず、自らを裏切り続ける不毛な美青年は、その象徴として、女たちの陰に佇み続けるのでしょう。



Related Entries