Misha's Casket

好きな言葉は残侠と耽美。基本的には鑑賞記。うぐいすリボン協賛中。

同人の世界で孤立してしまった人。~二次創作BL同人が自虐したわけ

できるだけ手短に申しますとね。二次創作BL同人やっていたという女がわざわざ声をかけて来て「1982年頃の白泉社『花とゆめ』の連載作品は全部やおいだった」と言ったから、当方は「嘘はいかんな」と思ったのです。

ご本人は「ノンセク」だの「セクマイ」だのと名乗って、配慮しろ配慮しろと騒いでいるくせに、他人については平気で嘘をつき、偏見を広めようとする。

それがタイムラインに張りついて、「弱者の声を挙げていく!」とかいって、リツイートされて来る発言に片っ端から噛みついてトラブルメーカーになっているなら、もともとリアル世界で孤立しているから、SNS依存症になっているのです。

知り合いの男性に具体的に噛みついて怪我をさせ、母親がトラウマになっているから仕方がないと言い訳しているなら、心神喪失のふりをして罪を逃れようとしているのです。

つまり、二次創作BL同人時代に覚えた「弱者特権」とか「トラウマ」という概念を悪用しているのです。ここ重要です。

それが「スマホに向かってうなだれた姿勢を長時間続けると肺が圧迫されて酸素供給量が減り、脳を鬱病化させます」と言うなら、自分がいちばんその状態に陥っているということです。

そもそも、同人として言っていいこと悪いことの区別ができないから、同人の世界でも嫌われて、追い出されてしまったのです。昔の仲間に連絡を取ることもできずに孤立しているから、新しく群れる仲間がほしいのです。で、かまってちゃんになってしまったのです。orz

都会人の孤独は古い映画にも表れている通りで、いまに始まったことじゃなく、それ自体は哀れなんですが、もともと自業自得なのです。

当方としても関わらないほうがいい人だと思って放置したんですが、その後いっそう悪い状態になっていることが分かったのです。老後に向けて、受け入れ先を見つけたいなら、一度本気で反省しましょう。

ただし、もともと自己露出したい人ですから、むきになって言い訳(責任転嫁)を始める可能性があります。しかも自己弁護のために他人の名誉を傷つける癖がある人は、ほかの同人さんの迷惑になってしまいます。

したがいまして、一般論として「同人・BLファンの皆さんに知っておいて頂きたいこと」というお話を申し上げます。

【二次創作BL同人が自虐したわけ】

二次創作BL同人が自虐したのは、SFアニメファンの怒りを回避する必要があったからです。

リメイク版の「アホ毛」が轟々たる非難を浴びたことを思い出しましょう。コアなアニメファンには「ロリショタの連中に荒らされてしまった」という恨みが深いのです。

「二次創作同人は誰もアニメを愛しておらず、金目で利用しているだけだ」とバカ正直に証言する者があるなら尚さらです。

そもそも同人誌の中でも、二次創作同人誌(を名乗る個人誌)は、同人誌即売会の中でしか取引されません。委託販売という手もありますが、そういうお店自体が一般的ではありません。それが一般男性からの揶揄や差別を避ける必要はないのです。1970年代なら尚さらです。敵は即売会の中にいたのです。(当時は男の日・女の日に分かれていなかったのです)

二十四年組による受賞作品を漫画同人がパロディ化したのは、敬愛の気持ちを漫画同人一流のブラックジョークの感性で表したと言っていいでしょう。それはむしろ漫画同人の誇りです。漫画同人とはそういうものだと言うことができます。

けれども、テレビオリジナルアニメに手を出した時点で話が変わってきます。

まして小説同人がやらかしたことなら、漫画同人には弁護してやる義理はありません。もともと漫画同人会の集まりだったところへ勝手に自主参加してきたアニメファンクラブと小説同人会の同士討ちみたいなもんです。

ポスト二十四年組が手塚・石ノ森・その衣鉢を正しく継いだ萩尾・竹宮などの大ベテランのプレッシャーに耐えかねて、「山も落ちもない」自由な創作を志したとすれば、それはまた彼女たちの自尊心を表しています。新しい境地を開拓しようとしたのです。実際に成功したと言っていいでしょう。

けれども、彼女たちは漫画家であり、彼女たちが手がける「山も落ちもない」作品は、断じてアニメプロデューサーまたはテレビ局の権利を侵害する小説ではありません。

つまり、おなじ即売会の中で、まじめなアニメファンに見つかるとマジでヤバイと思った小説同人たちが、勝手にポスト二十四年組が紹介した言葉を使ったのです。そのこと自体に二十四年組もポスト二十四年組も無関係です。

それがプロ漫画作品と混同されて世間様から注目されたり、同人自身が混同してプロのファンを怒らせるようなら、せっかく自虐した意味がないのです。

この程度のことを社会学者が突き止められなかったなら、研究史上の大黒星です。

そして空気読めない女が弱者代表を気取っているのでは、他の弱者が迷惑するのです。

ゲイを激怒させた質問とは。

「あなたは攻めですか受けですか」と確かめようとしたのでしょうね、女性が。

だからゲイコミュニティが「どうしてそういうことにしか興味のない女が増えたんだ!?」と思ったのです。そして情報交換した。結論が「女性向け創作物が影響を与えている」ということになったのでしょう。

だから彼らは「創作物から影響を受けやすい未成年者のうちから読ませるな」と要望したのです。

だから、社会学研究者や評論家の興味も「劇中人物が男役と女役に分かれている件」に集中したのです。

意外なようですが、ゲイ雑誌ってのは、そんなことばかり描いてあるわけじゃないのです。研究者たちも指摘した通り、現実のゲイは男役女役に分かれているとは限らないのです。女性向け創作物だけが偏っている。

だから研究者たちは「なぜ若い女性の現実認識が歪んでいるのか? これは男性社会に対する皮肉なのか?」と問題視したのです。

もしかしたら女性のほうで調子こいて「攻めってゆぅのわ~~」と説明しちゃったかもしれませんね。ゲイバーまで行っているということは、お酒が入ってるわけですから。

これを聞いて「うわあああ」と思うのは、当の同人です。「そういう女のせいで私たちの二次創作BL同人活動が規制されたら困る!」と思うからです。

だから同人の間では「ぜったいに行くな。ぜったいに本物を怒らせるな」なのです。

ゲイバーもご商売ですし、女性もどうぞと言ってくださるお店もあることですから、行くだけ行ったっていいですけれども「本物のホモなんか怒らせてやってもいい」という同人は、ひとりもいません。

なお同人というのは、サブカルファン一般のことではなく、あくまで同人活動している人のことです。俳句の会に入っている人なら俳句同人。漫画を描く人は漫画同人。小説を書く人は小説同人。その点は明治時代から変わっていません。

その漫画同人・小説同人の中でも、二次創作という特殊な(著作権上の問題をかかえた)作品を意図的に制作する同人が、外聞をはばかって隠語を用いたのが、同人が自虐した本当の理由です。

たんに「男同士の話だから」ではないのです。

したがいまして、自分では自主制作・イベント出展せずに「買って読んだだけ」という女性が、自分を「腐女子」と呼んで「私には二次創作BL同人の仲間が大勢いる=かばってもらえるから大丈夫」という気分になってしまうと、たいへん同人の迷惑です。

マスメディアの皆様もご注意ください。自分自身が社会現象に詳しいつもりで、うかつに同人界の隠語を記事中に用いると、読者の中には、まるでそれが最新流行で、仲間が大勢いるかのように思ってしまう単純な人もあります。

すると、素人女性が素人の性的少数者に深刻な精神的被害を与えることを増やしてしまいます。

ロリ派の男性を含めて、同人は、創作物が実在被害の原因になることを望んでおりません。創作物を創作物として消費して、それで終わりにする約束を守れない読者は、同人の敵です。

【約束を守る約束】

おとなが仁侠映画やチャンバラ時代劇を観てもいいのは、それが本当には斬れない小道具を使ったお芝居であり、わざと「嘘」をついて楽しんでいるのであり、決して現実世界では真似しない約束が守れるという前提です。

おとながコンビニで「成人向け」漫画を買ってもいいのも、その中に描いてあることを真似しない約束が守れるという前提です。漫画の中に夜道で女性を襲う場面があったからといって、コンビニの帰り道で本物の女性を襲ってはいけません。

男同士、女同士を描いた漫画はふつうのコンビニでは売っていませんが、通販などを利用してそういう漫画を手に入れた際にも、同居人または自宅の外で出会う人間に対して、暴力的な行為を真似してみてはいけません。

そういう約束を守ることを、いちいち言われなくても、おとななら分かっているという前提で、成人は暴力的またはエロティックな映画や漫画や小説を鑑賞してもいいことになっているのです。

もし面白半分に「少年漫画にも、けっこうエロい場面がありますよ♪」と言う人があるなら、出版社・作者としては「でも実際の事件の原因にはなっていません。少年犯罪の発生率は減少しています」と、全力で言うでしょう。

危険ドラッグでさえ、交通事故が起こるまでは規制対象ではなかったのです。もし創作物を読んだ人が実在被害を起こすことが度重なるようであれば、創作物を禁止することになります。

【とくに困る】

ゲイ・レズビアンがストレート女性の言動について苦情を言う時は、まず「一般にストレート女性がゲイバーまで入って来て、ぼくたちの会話の邪魔をするのは困る」と言います。が、それだけで終わりません。

彼(女)らは「とくに『やおい』には困る」とか「とくに『腐女子』には困る」と付け足すのです。全体として困るが、とくに困るタイプがいると、わざわざ言いなおすのです。

それが冒頭のタイプというわけです。彼らの性的行為の詳細を知りたがり、役割分担を確認したがり、「受け」タイプの可愛い顔した男性だけを狙ってジロジロ見物し続けたり、あとをつけて歩いたりするので、本人にとっても迷惑だし、周囲で見ているLGBTにとっても、たいへんいやらしく感じられて、きもちが悪い。そういう被害です。

やってることが、悪い男と同じなわけです。それを「女性が男と同じことをするのは、女性の権利です!」といって弁護してしまったのが1990年代のフェミニストです。

彼女たちは、その際に「やおいは私たちのものです!」と主張したそうです。でも、ゲイ側が言って来たことは「あんた達のものだから責任もってくれ」ということです。

彼らは「竹宮恵子の単行本を回収しろ」と言ったのではありません。

「竹宮恵子の作品を部分利用し、換骨奪胎し、様式化したものが、後の時代に流行し、同性愛について偏見を強め、不適切行動を増やしている」と、的確に指摘したのです。

見事な分析です。同人よりもゲイのほうが分かってます。

「自分もプロになりたくて、竹宮先生と同じように歴史や純文学の勉強をして、いろいろな要素を含んだ作品を描いたので、デビューさせてください」という少女ではなく、性的な場面だけを面白がって、そこだけを真似することを「山も落ちもない」と称して流行させた、一部のアマチュア少女。

そういう連中がゲイバーまで来るから困ると言っているのです。それをフェミニストが「私たちのものです」と言うなら、責任もって「やおい少女」に人権意識を教育してやればいいです。

「山も落ちもない同人漫画を読んだり、自分で描いたりすることは女性の表現の自由ですが、現実の男性を困らせてはいけません」って。

1980年代の間に同人作品を楽しんだ人々が、1990年代に成人すると、さっそくゲイバーへ押しかけて、問題を起こしたのです。ということは、1980年代の人権教育が不足していたということです。

もし「現実の男性なんか困らせてやったほうがいいんです。これは今までの復讐です!」と言うなら、相手を間違えています。自分の旦那か会社の上司に復讐すればいいです。

じつは、1980年代の間に「若いゲイ同士が同居して、料理する役の男が、新聞を読みながら待っているだけの男を『パパ』と呼び、逆に『ママ』と呼ぶ」という映画が公開されたことがあったのです。創作ではなく、ドキュメンタリーです。『らせんの素描』と言います。

これを観て、フェミニストは激怒したのです。「現実の職業と家事・育児の両立の苦労も知らないくせに、パパママごっこか!」って。

だったらゲイカップルにも子育てさせてやればいいんですが、それはまた別の話。ここで問題なのは、フェミニスト側がゲイに対して「お前らが『女は家庭』という偏見を強めている元凶だ!」という敵愾心を持っていたことなのです。

だから、その約十年後にゲイ側から苦情が出たとき、フェミは「今こそ復讐の時よ!」と思っちゃったのです。

ゲイにしてみりゃ「ドキュメンタリー映画はぼくらのものだ。女がケチつけることじゃない」と言えたでしょう。言ったかもしれません。それに対して女性側は「やおいは私たちのものです! ゲイが文句言ってはいけません!」というわけです。

じつに厄介なことに、当時すでに「ボーイズラブ」とう名称が提案されていたはずなんですが、これが総称として用いられなかったのです。

ゲイ側はあくまで「プロ作品を換骨奪胎した同人作品がとくに良くない」と言ったのに、なぜかフェミ達は、ゲイ側が「やおい」という言葉を使ったのを聞いて(読んで)、女性の表現の自由全体が男性からのクレームによって規制されるという問題だと勘違いしてしまったのです。

だから本来「やおい」(=二次創作BL)には無関係なはずの竹宮や栗本が議論に巻き込まれちゃったのです。

女性のほうがおかしいのです。なかんずく、フェミが勘違いしたのです。

同人側としては「同人作品がとくに良くない」と言われたら「ごめんなさいごめんなさいもう行きませんから二次創作を禁止しないでください。あまり大きな声で『やおい』とか『腐女子』とか言わないでください。原作者様に見つかったらマジでジャンル停止させられちゃうんです」しか言えないのです。

(というか、言うに言えないのです)

女性ナルシシズム表現の多様化。~BLの本質

登場人物が男性なので、自分では男性心理を書いているつもりだから、BLは女性ナルシシズムを表していると言われると違和感を感じ、誤解されたとか、屈辱だとか思って怒っちゃうのがBL作者。

けれども、他人が読めば明らかに女性心理なのです。もともと「女性的な心理を持った男性には女性が感情移入しやすい」ということに立脚しているからです。

「女性には理解しにくい通常の男性心理をついに理解したから書いている」ということではないのです。

もともと「女性と同じように男性を愛してしまった男性」という前提で、女性が「それなら分かる」と思って書くものだから、書けば書くほど男心を書いているつもりで女心になっているのです。

それを批評家や純文学を読みなれた読者、心理学者などが読めば「明らかに女性心理」と見抜くのです。

ここで「私は愛なんて書いていません! ただの暴力です!」と変な自慢をして来る女性もいるんですが、一般的な男性には不可能な長ったらしい言葉責めを駆使する男性キャラクターは、その知性が女性です。

女性が「ふつうの男は単純だから会話しても面白くないわ」という思いをBLの台詞に籠める時、そのキャラクターは表面的に男性ですが、知性が女性です。

だからこそ「なんで女性キャラクターとして表現しないんだろう? なぜ女王様キャラクターを描かないんだろう??? こういう女性は女性キャラクターを描くことができないんだろうか」という疑問になるのです。

これに女性側で脊髄反射しちゃうと「男性向けになっちゃうからですよ」となるんですが、だったら「BLは私たちのものです! 男のくせに読んではいけません!」というのと同じように「女王様物語は私たちのものです!」と言えばいいのです。

また「少女たちは結婚すると人生が不利になるから女をやめたがっている」と言い訳したフェミニストもいましたが、それにしちゃお嬢さん達がずいぶん少女趣味なドレスを着ていますねってことで整合性が悪くなって、謎が深まったのです。

そもそも、キャラクターの外見(漫画または小説の挿画)からして、明らかに女性的なわけですね。

【男性ナルシシズムとは別】

もしBLは女性ナルシシズム表現ではなく、男性ナルシシズムの追及であるというなら、田亀源五郎や戎橋政造の画業を応援すればいいのです。ゲイ専門雑誌の売上が伸び、彼らの自立を支援することになるでしょう。

でも「生々しいじゃん」なんて言って来た人がありました。生々しいから、なんでしょうか?

男性作品は生々しいから読まないと言うなら、なぜBLは生々しくないのに読むのですか? リアリティのない男性キャラクターになんの意味があるのですか? 生々しい性描写が苦手なら、そもそも性描写なんか読まなきゃいいですよね? なぜキャラクターを生々しくなくしてまで性描写を読む必要があるのですか?

話がここまで来た時に「BLの目的はエロですよ♪」では、なんの役にも立たないわけです。なぜ、あなた(とあなたの同人誌の購読者)のエロスは、女性的な男性キャラクターに集中しているのですか?

「だって、女っぽいほうがきれいだし、可愛いし、エロく感じるから……」というなら、それが女性の自己愛です。女性が女性をこの世で最高に美しいものとして評価しているということです。女性が「美」の評価基準だということです。

女性がこの世で最高に美しいから、女性みたいな男性も美しいのです。

ゲイはそれが我慢ならないのです。「そんなもん女同士で勝手に描いて喜んでろ。俺たちの店にまで探しに来るな。そんな男、現実にいるわけねぇだろ。バカじゃねぇ!?」って思うのです。

それに対して「女の勝手でしょ! 口出ししないで!」と言うなら、もう明らかにトランスゲイではありませんし、弱者の連帯でもありません。

【一般化】

「女とおなじ心を持った男を、女が歓迎する」というのがBLの根本です。

広くとらえれば、家事炊事をする男性、育児に積極的な男性、編み物や活け花を教えてくれる男性、洋服の買い物につきあってアドバイスしてくれる男性が女性に人気がある現象と、根っこが同じです。

自分に似ているほうが親しみが湧く。安心して付き合える。会話も弾む。

じつは日本では、そういう女性的な男性を揶揄的に「フェミニスト」と呼ぶ習慣があって、これは日本独自の用法だそうですけれども、一般男性のほうでそういう男性がモテる現象に反感があるもんですから「そんな男を歓迎する女は、まだ子どもなんだよ」と言うことがあるのです。

すると女性のほうで恥じ入って「男らしい男を受け入れられるように努力いたしますわ」って言うもんだと思っていたら、ある時期から女たちが「自分が子どもっぽいまま、女の子っぽい男の人とお付き合いするの最高♪」って言い出しちゃったもんだから、男たちは舌を巻いているのです。

けれども、よく思い出してみると、日本では昔から歌舞伎の女形に人気がある通りで、おとなの女性も女性的な男性を好むのです。しかも有閑マダムたちには、ふつうのオッサンな旦那がいる(ので家に置いてくる)こともあれば、ダンディな旦那がいて、ちゃんと彼女を劇場へエスコートしてくれることもあるのです。

「女王様ぶって女装の男性を連れ歩く」という女性は少ないもので、女装という極端な表現は舞台上のものとした上で、自分自身の未婚・既婚を問わず、やや女性的な男性との交際を好む(役者との交流会に出席するなど)ということは、日本では古くから普遍的な現象なのです。

これは、武士政権の陰で、日本社会に古代の女性中心主義が存続してきたことを示すものです。日本固有文化は、欧米のマッチョ最優先主義とは、最初から条件が違うのです。

【ナルシシズム表現改革】

自分によく似た同性を主人公にするというのは、夏目漱石『三四郎』にしても、コナン・ドイルが創出したワトソン博士にしても同じことで、近代男性文学の基本です。

じゃあ彼ら近代文豪が自分によく似た異性を描かなかったかというと、そんなこともないのです。漱石は女性キャラクターの口を借りて日本男児の自尊心を揶揄しておりますね。谷崎潤一郎は『鍵』で女性の日記という体裁を取っているけれども、書いているのは彼自身ですから、当然ながらこの女性は彼と同じ知性を持っている。

三島由紀夫は女性キャラクターの本質に意識的で、自作のヒロインについて「あの女は男だよ」と言ったそうです。

逆にBLの本質を「強固な女性自認の持ち主が女性的な男性に親近感を覚える現象」として一般化すれば、同人誌即売会へ二次創作BLを買いに来るお嬢さんたちが少女趣味なドレスを着ていたというエピソードや、自ら少女とか乙女とか称する現象や、実際の同性愛者に同情的ではなく揶揄的であって、しばしば失礼なことを言う現象も無理なく首肯されるのです。

最後の件は残念ですが、もし本当に作家自身を含めてBL愛好家がトランスゲイで、現実の同性愛者を人生の先輩として尊敬し、頼りにするものなら、絶対にプライバシー侵害などという問題は起こさないのです。

BLは、よくも悪くも女性中心主義です。男性社会を女性目線で観察し、自分に都合のいい範囲だけ切り取った結果です。そこにもともと存在していた「女性的な男性」という存在に「目をつけた」というだけです。

だから二次創作も、もともと男性作品のキャラクター構成に変化をつけるために女性的な人物を一人混ぜておくと、それに女性ファンがつくという現象が基本です。

(「もともと女役の男性が好き」をひっくり返して「好きな男性キャラを女役にする」のが二次創作BL。同人自身はそのキャラが好きではなく読者の好みに合わせて戦略的に描いているだけといっても結論は同じ)

けれども、1980・90年代には、1970年代に流行した「男装の麗人」の印象が残っていたことと、女性の社会進出が本格化した頃だったので、逆に女性自身が男性化する現象だと思ってしまった評論家が、けっこういたのです。

実際に、二十四年組や『JUNE』派の作家などは創作活動によって自立していたので、男性化した女性ということができたのです。

が、その描くものが「男性化した私自身」というキャリアウーマン物語ではなく、女性化した男性だったから、「作品には作者自身が登場するもの」と思っていたタイプの批評家がとまどったのです。

さらに読者自身(の一部)が体現している少女趣味との整合性も悪くなり、理解不能になってしまったから「どっちのキャラクターに感情移入しているのか」なんてくだらない質問も飛び出したのです。

冷静に考えれば(冷静に考えましょう)「女性と同じように能動的な男性をカッコイイと思う男性」と「女性と同じように受動的な男性をカワイイと思う男性」ですから、どっちも女性の味方ですね。

この「ナルシシズム表現の多様化」と言うべき現象を批評家が批評しそこねたなら、これは批評の流儀の問題ですから、日本の批評家の勉強不足・思索不足です。

いっぽう創作家たちは、ほとんど本能的に本質を見抜き、ふたたび性別を逆転させて、男流漫画の多様化を成し遂げたのでした。すなわち、戦車に乗る少女。

なお、女と同じ心を持った男性が現実にいると思って探しに行っちゃうと、ゲイバーでひじょうに困ったお客さんになってしまいます。

成田美名子『花よりも花の如く』に見る女心、男心。

シリーズ序盤のエピソードに基づく部分的考察。

じつは能楽師というのも舞台上の男である以上、女性客から「顔で選ぶ」とか「若さで選ぶ」とか(本人に聞こえないように)言われちゃう可能性はあるのです。

実際に『花花』に登場する若手能楽師たちは、女流漫画家自身の好みにしたがって、女性的(少女漫画的)な顔立ちの「イケメン」として描かれていますね。けれども劇中には、女性ファンがお舞台そっちのけでキャーキャー騒ぐ描写がない。これは読者が真似して実際の能楽堂で騒ぐのを防ぐためでもありますけれども。

だから主人公は、自分が女性から好奇の眼で見られる可能性に気づいていない。それどころか女性ジャズシンガーが「歌唱力よりもセクシーなドレスを着てくることを要求されるのが屈辱だ(あんたたち男はいいわね)」という発言に「いままで気づかなくて悪かった」というふうに胸を痛めてしまう。

「そんなの女だから当たり前だろ」とは言わない。「俺だって女どもの視線に耐えてるんだぜ」とも言わない。

女性向け雑誌上の連載ですから、女性フレンドリーな男性キャラクターなわけです。女心を分かってくれる。一緒になって傷ついてくれる。『恋重荷』で悩んだ時も、論点は女心を理解することでしたね。

おそらく男性の能楽ファンが読むと不思議な感じがすることでしょう。いかにも初心者らしい駄洒落(20kmの地謡)などは微笑ましく読み飛ばすとしても、根本のところで、これは能楽の話ではない。

演技を通じて「女心を理解できるようになったイケメン」という理想の男性像に対して、女性(作者・読者)が感情移入し返しているという構図。男性読者は、かやの外です。

2015年8月、原田眞人『日本のいちばん長い日』松竹

松竹の本気。大ロケーション、大昭和劇。

なんですが、なによりも感じるのは「映画が国民的娯楽ではなくなった」こと。

デジタル時代らしい軽快なカメラワークで俳優たちに肉迫し、ささやき声で交わされる政治家同士、将校同士の会話を高性能マイクで拾ったという超リアリズム演出により、物語が頭に入ってる人じゃないと意味不明だと思われるのです。

半藤原作はもちろん、ナレーションを起用して説明に努めた岡本喜八による1967年版ありきなのは明白で、ちょうどその裏返しのような構成になっているのでした。

つまり、マニアックと言えるくらいの大人の鑑賞者に対象を絞り込んであるのです。

『楢山節考』でもあったことですから、リメイクの基本と言うこともできますし、「岡本と同じことをしても意味がないので、1967年当時には再現しにくかった要素を前面に押し出すことにしたから、他が尺を食われた」という言い方もできるんですが、この題材を「それでいいだろう」という判断をくだした、その現代映画市場を見切ったセンスがいい度胸だと思うのです。

口調まで再現した本木雅弘の熱意には目頭が熱くなります。東条役はお上とは別の意味で日本人俳優が引き受けたくない役ナンバーワンじゃないかと思いますが、舞台で鍛えた中嶋しゅうは吹っ切れてます。