MISHA'S CASKET

好きな言葉は残侠と耽美。モットーは温故知新。うぐいすリボン協賛中。

まず、あなたが冷静な読者であってください。

ここの同人・BL論は、あまりにも分かってない中年がいたので、次世代に向けて「そもそも同人とは」というところから説明し直すという目的をもって始めたものです。

だから、他のサイトには書いてないことが書いてあります。偏見を持っている人・勘違いしたまま議論を進めている人々のほうが威張っているので、それに対して「あえて異を唱える」ということをしているからです。

「どっちが本当なの?」と思った時は、判断を保留しましょう。「どっち!? どっち!? これってヤバくない!?」とかいって騒がなくていいです。まず、あなたが冷静な読者であってください。

答えを出さなくても、二次創作というものを読んで楽しむことはできるし、てきとーに真似して書くこともできます。他コミュニティ・著作権者に迷惑かけないこともできます。

「世の中には確実なことなんて何もないんだ!」という中二病気分になってしまって、あなたが自分の人生を投げてしまう必要もないです。

とくに、入学試験・資格試験・法律などを勉強する際は「とりあえず現時点ではこういうことに決まっている」ということを確実に暗記する必要があります。運転免許を取りたい人も多いことと思いますが、交通ルールは確実に覚えないと自分が事故の原因になってしまいます。

「なぜアメリカでは左ハンドルで、日本では右ハンドルなんだろう?」という疑問をもって、自分で歴史の本を調べたりすることもできますが、それとは別に、現時点で右ハンドルに合わせたルールを覚える必要があります。

そういうのと同じことで、疑う心丸暗記する心を両方、持ちましょう。二足わらじを履きましょう。

人間の心は狭くありません。二足ではなく三足でも四足でも履くことができます。二次創作を楽しみつつ、原作アニメの主題歌を聴きつつ、勉強することもできます。(同時にやらないほうがいいです。日時を使い分けましょう)

もともと、ここの人が「二次創作やBLというものについて、少し言っておいたほうがいいな」と思ったのも、混同が発生していると思ったからです。

けっこう多くの人が、二次創作であることとBLであることを混同して「女が描いたから大目に見てもらえる」と思い込んでいるのです。

でも「女のプロが小学館漫画賞を受賞したから、私が二次創作してもいいじゃん」ということにはなりません。

プロがパロディを描く時は「ヤマト」ではなく「ムサシ」とか、「3年B組」ではなく「3年Y組」とか、わざと間違えたようにするものです。

そういう配慮をしていない作品が著作権者の判断に基づいて告訴・起訴された場合に、被告が「私の心はまだ少女だから」といっても通用しないのです。傍聴席から「本気で大目に見てもらえると思っていたのかよw」と笑いものにされてしまうだけでしょう。

だから「学者たちは少女のことばかり議論していますが、1980年代の同人は1990年代には成人しました」などの注意喚起をしています。

それに対して「でも私がBLに目覚めた(二次創作同人活動を始めた)のは1980年代の少女時代だよ!」と、怒って言って来る人は、本気で大目に見てもらえると思っているのです。

そういう甘い心があるから、ゲイコミュニティにも迷惑かけるし、非親告罪化という話も理解できないのです。

もともと同人というのは、パロディを駆使する連中ですから、物事を斜めに見ることが得意で、頭の回転がいいものなんですが、自分で自分を甘やかしたい心があると、判断がにぶるのです。

まずいことに、自分が歳を取ってしまったと思えば思うほど、若く見られたい気持ちが強まりますから、そういう人は、これから増える恐れがあります。

わざと「負け犬よりマシ」とかいって、世間様を挑発しておいて「でもBLが好きな女の子は大目に見てもらえるじゃないですか~~w」って言いたがるのです。

本当に若い人は「うわぁ…」と思ってください。いま、そこで「そういう恥ずかしい大人にはならない」と決めてください。

そういうわけですから、学者やマスメディアや新宿二丁目方面の皆さんも、面白半分に「やおい」とか「腐女子」という隠語・流行語を使用しないほうがいいのです。プロとアマチュア、オリジナルと二次創作、著作権問題と性的指向(嗜好)の問題を、混同しないほうがいいのです。

議論に際しては、議題と用語の定義を確認しましょう。当事者は誰なのか、年齢が問題なのか、性別が問題なのか、法律で認められた権利が問題なのか、海外からの介入に対して国民が一丸となることが必要なのか、国内差別の問題なのか???

まず、落ち着いてください。まず、あなたが冷静な読者であってください。多様化とは混同して話をごまかすことではなく、一線を引いて平和共存することです。個人を尊重するということは、他人に責任転嫁しないということです。多様化するとは孤独に耐えるということです。

ここの人は「若いから頭が悪い」とか「若いから行儀が悪い」とか思いません。冷戦体制崩壊後の多様化の時代に成長し、ディベートや小論文の授業も受けて来た世代の論理的判断力に期待します。

「二次創作は遊び」とは「本物に迷惑かけるな」という意味です。

昔の同人の先輩が「私たちのは遊びだから」と言ったのは、その後に続く言葉が「ぜったいに本物を怒らせるな」だったのです。

遊びとは「にせもの」という意味です。にせものの分際で本物に迷惑かけるな。とくに「実在の同性愛者に遠慮しろ」という意味だったのです。

けれども、1980年代の間に、本来のサークルの形態を取らずに個人出展する若い人が増えてしまい、自分に都合よく解釈して、デマを流行させてしまったのです。

「私たちのは遊びだから、著作権者が大目に見てくれるから、ぜったいに逮捕されないから大丈夫www」という。

いまだにそれを覚えていて、21世紀の一般国民の皆様が本気で著作権のことで怒って議論している時に、からかう人もいます。「二次創作は遊びじゃないのw」って。

それは「そんなに真面目に考えることないわw」という意味です。法律を守るべきだと思っている一般国民に挑戦状を叩きつけたという意味です。

だから、それやっちゃいかんのです。

たかが同人の分際で、自分がえらくなったと思うなというのが、昔の先輩の教訓なのです。

とくに、いまは出展していない・誰からも認められていないという中年が「私のほうが同人業界の裏に詳しいわ。あなたたち一般ピープルね。素人ねw」という優越感に浸ってしまうのは悲しいので、やめましょう。

1988年から30年が経過しましたから、当時の少女もいい中年です。だから先輩ぶりたがるのですが、コミケは1975年に始まりましたから、バブル組は第3世代以下です。中途半端な知識しか持ってないです。自覚しておきましょう。


雪の日に思う、女性の弱者特権。

自動車が雪に埋もれて、立ち往生して、他の車や近隣から人が出てきて、男たちが腕力を合わせる。そういう姿を(テレビで)見ると「こういう時、女は非力だな」と思います。

女性だって、何も持ち上げられないことはないですが、健常女性が3人集まっても動かないであろうものが、健常男性が3人集まれば動くのです。

けれども、女性にもアクセルを踏んだり、ハンドルを切る(廻す)ことはできるわけで、それさえ怖くて出来ないといって泣いてしまうよりは、運転免許くらい取っておいたほうがいい、と。

そう思った時に、また実際に勉強する時に、いちいち「しょせん女は」と嫌味を言われたり、セクハラされたりしないというのが女性の弱者特権です。

自分から他人に嫌味を言ったり、怒鳴りつけたり、法律違反したりしても大目に見てもらえるという意味ではありません。ここ勘違いしないようにしましょう。

いっぽう、男たちが「いや、えらい目に遭った」といって戻って来た時、室内を暖めておいたり、飲食物を提供したり、替えの靴下がどこにあるか知っているというのも、やはり重要な役目ではあります。

軍隊などでは、そういう仕事も男性(兵卒)が担当するわけですが、女子は何もしなくていいというわけではありません。大戦中には、衛生班だったり職工だったりしました。黒澤映画にもありましたね。

現代の少女たちが、当時の女学生たちよりも高い教育を受けているとすれば、暇つぶしさせているのではありません。学問・研究の分野で業績を挙げたり、パソコンを使いこなして経営を助けたり、自分自身が起業したりして、高い利益を得て、国家と自らの生活を安定させるためです。

「なんのためにこんな勉強するのか分からない。国家や保護者の思惑に沿って生きたくない」というなら、ほかにどんな人生があり得るのか。対案が出せるのか。

宇宙飛行士になるためには、どんな試験を受けて、どんな訓練を受けるのかを描いた漫画がありました。パリ・オペラ座のバレリーナは遺伝子まで調べられると教えてくれた漫画もありました。

では漫画家自身はどうかというと、水木しげるが良い例で、描ける人は小学生の内から描いているものです。アイディアが湧いて湧いて止まらないという人がいます。デッサンの練習しろなどと言われなくても、描くことが習慣であり、唯一の楽しみでもあるという人がいます。

どうも自分はそれほどではないという時、現在の自分から地続きで踏み出していけるのは、どの方向か。

こういう話をすると、中年が「努力しなかった私が悪いっていうの!?」と、すねるので、めんどくさいことがありますが、いまそういう話じゃないです。

おのれを知り、敵を知れば、百戦あやうからず。いま、ここにいる自分にも、まだできることは何か?

過去を言い訳して「私が努力できなかったのはお母さんのせいだから仕方ないじゃん」というのは、自分自身の深い実感だとしても、みっともないので、やめましょう。

気になるのは、ひじょうに良いものを持っていて、個性的なサイトやブログを運営しているのに「でも私はアダルトチルドレンだから」と言い続ける例が複数あることです。

そういう女性は、一人ではないのです。最大の問題は、その「アダルトチルドレンだから」と言いたい気持ちです。

自慢する人には劣等感があるの法則ですが、寂しさを抱えたまま、黙々と毛糸を編むとか、そういうこともできるわけです。べつに、わけを言わなくてもいいのです。

けれども、実際に黙々と作業することによって立派に完成した作品を発表して、ウェブ拍手や「いいね」をもらいつつ、「でも私の場合お母さんが…」と言い続ける。

それは、心のどこかで自分本来の課題が「正しい母性を確立することだ」と認めてしまっているのです。

「けれども自分にはできない。なぜなら母親が正しいロールモデルを与えてくれなかったからだ…」と言い訳しているわけです。

実際に母親が良い例ではなかったということはあり得ます。いまから結婚できるかできないかということも、たとえ他人がお見合いを設定してやったとしても、うまく行くとは限りません。いい人だと思って結婚したが、失業を機会にアルコール依存症になってしまったということもあり得ます。

誰にも保障はできません。もとより他人を変えることはできません。

けれども、実際的なアドバイスとしては、アダルトチルドレンとか、トラウマとか、メンヘラとか、そういうことをブログの主題にしてしまうと、治らなくなります。

治ってしまうと、おなじ編み物上手、おなじ料理上手、おなじサイコ・セラピスト仲間の中でも特別な私でいることができなくなってしまうからです。


同性愛の男役がチョコを作ることは、異性愛の女が作らなくてよいことを意味しません。

「すべての弱者が自己決定権を認められるべきである」という言い方をすれば、良いことのように聞こえます。

1945年に第二次大戦が終了した後は、全世界的に民族自決の掛け声によって独立を達成する国が続出しました。

だから、同性愛の男と異性愛の女が連帯すれば、なにもかもうまく行くように思えます。

が、男女のことは「我も我も」とは行きません。

なぜなら、女性が説得すべきは、あくまで彼女の配偶者(候補)である異性愛の男性だからです。

同性愛者の家庭では、ネコ(性愛の場面における受身を意味する隠語)がチョコを作るとは決まっていないということは、タチ(もちろんその逆を意味する隠語)が作ったっていいということですね。

でも、同性愛者の家庭では男役も女みたいな作業をするということは、異性愛者の家庭にとって、たんに「よそ様の事情」というだけです。

あくまで、異性愛の女性がその「同性愛者の家庭では男役も家事をする」という情報を自分に都合よく「イメージ利用」して、個々のパートナーを説得するという構図でしかないのです。

けれども、もしパートナー(候補)である異性愛の男性が「同性愛の奴らは好きにすればいい。俺だって他人の家庭にまで口出ししようとは思わない。けど、うちではお前が作ればいいだろ。いやなら別れよう」と言えば、終わりです。

同性愛の男性が、あなたの家庭まで入って来て、あなたの配偶者(候補)を説得してくれることはありません。

この問題、女性にとって最大の陥穽は「別れられない前提で交渉する」という話でしかないという点です。

子どものため、あるいは世間体、あるいは再婚がむずかしいから、またはやっぱり惚れているから、別れたくはないが負担が大きいという時、あくまで男の機嫌を損ねないように、おだてながら、女性に有利な譲歩を引き出していくという、ネゴシエーションでしかないのです。

ここを勘違いして、家庭の中でプラカードを掲げ、権利権利とシュプレヒコールったり、ジグザグったりする気分になってしまうと、男性は「別れよう」って言うだけです。

実際の既婚男性は、別れるほうがめんどくさいので、冷淡になって、もう何の話も聞いてくれなくなる恐れがあると言えます。

未婚の男性であれば「そんな女とは付き合わないよ。もともと俺は甘いものなんか食いたくない」と言うだけです。そんなに作りたくなきゃ義理チョコも配らなきゃいいだけだろってね。

女性が要求を上積みすればするほど、男たちは逃げるだけです。そして女性に対して腰が引けた男性は、ホモになるのではありません。ただの独身主義です。異性愛者の問題と同性愛を混同してはいけません。(ここ重要)

そもそも「どんな困難も乗りこえて女性を獲得しようとすることが男らしさ」ということ自体が、男らしさというジェンダーロールの押しつけであるはずです。

かぐや姫伝説以来の女のロマンは、いま、男たちの「自由」という抵抗にあっているのです。

言うまでもなく、ウーマンリブまたはフェミニズムというのは冷戦時代に盛んになった思想ですから、多くの場合、シス・ストレート女性は二項対立の発想にとらわれています。

シス・ストレート既婚男性(=父権)という強大な敵の価値観に対して、アンチテーゼとなる存在だから、同性愛の男と、トランスジェンダーと、シス・ストレート女性は共闘できると単純に考えてしまいがちです。

けれども、それは多様性の尊重ではありません。

同性愛者たちは、男らしさの押しつけから解放されたいと願うと同時に、女性の好奇心・依存心からも解放されたいと願っています。

腐女子と負け犬の二項対立は、成立しません。

もともと「負け犬」というのは、独身生活をエンジョイしてるんだけれども、そう言うと説教されちゃうので「可哀想な負け犬でございますと言っておく」という処世術です。

だから、その内実が「二次創作BLが大好きだから負け犬」ということもあり得ます。声優コンサートに行くのが生きがいだから負け犬ということもあり得ます。

同人誌(と呼ばれる個人出版)を買いまわったり、CDを聴いたりすることで本人が満足しているなら、幸せな負け犬です。

【冷戦の遺物】

「Aはイケてるが、Bはイケてないw」という二項対立の構図に落とそうとするのは、冷戦時代の発想です。

じつは、1980年代に少女だった世代が、2005年を過ぎたあたりから、急に威張り始めたのです。

「独身のまま、この歳になってしまった」ということに気づいて、急に焦り始めたからです。

べつに焦らなくていいですし、焦らなかった人も大勢いるんですけれども、焦ってしまった人から順番に変なことを言い出すようになったのです。

2006年には、わざわざ書籍を発行して「私たち腐女子は負け犬よりマシです」といって、強い批判を浴びた雑誌記者の女性がいました。この人は、おなじ本の中で「同人誌とはアニパロです!」とも言ってしまい、これも強い批判を浴びました。

つまり、一つの偏見にとらわれやすい人は、他のことでも偏見にとらわれやすいのです。

また劣等感を感じてしまった人は、優越感を取り戻そうとするので、他人を傷つけようとするのです。

ここの管理人に絡んで来たのは、別の人ですが、上の記者さんと同様に「プロか同人か、エロかプラトニックか、金目か非営利か、フェミか同人か」などなどの二項対立の発想に捉われていました。

自分とは違う意見の人を仮想敵にして、対抗意識を燃やして「私たち同人を規制するつもりね!?」といって攻撃して来るのですが、べつにそういう考え方をしなくてもいいのです。

ここの人が言っているのは「BLは女性のナルシシズム表現の一種だから、実在のゲイに直接質問してみるなど、迷惑をかけることではないので、マナーを守りましょう。それによって、BLが本当に規制されてしまうことから守ることができます」です。

「BLは女性のナルシシズム」という批評をする人だからといって、フェミだから同人の敵ということはないのです。

BLは、しっかりと女性自認がある人が自由意志で選んだ娯楽だから「母親のトラウマの被害者なので、ゲイと弱者の連帯せざるを得ない」ということはないのです。

BLファンは、ゲイに対して、著作権者に対して、ほかの独身女性に対して、なんの特権もないし、威張る筋合いではないのです。

日本の女性は、すでに「BLを読む自由」が認められているのだから、そのことに感謝して、世界平和と若い人の安全を願って、おとなの女性として、社会人として、ふつうに礼儀を守って、おとなの言葉使いで主張すべきことを主張し、できることをすればいいはずです。

わざと法律違反を自慢して「このくらい遊びじゃないのw」といって、世間様をからかう必要は、ないはずです。

【贈る言葉】

若い皆さんは、勤労や学問の合間に、BLくらい読んでもいいですし、同人誌を買ってもいいですから、それだけにこだわらない人になってください。

「自分は同人誌に詳しい」という以外に何も自慢できることがないので、他人を傷つけて、やっと少しだけ自分が優越感を感じることができるという、悲しい差別主義者になってしまわないでください。

配偶者がいなくても、他人様の子どもたちを預かって、立派に卒業させるとか、大学進学のお手伝いをするとか、障碍と共存するお手伝いをするといったことは可能です。

予備校の先生でもいいし、福祉課の職員でもいいのです。自己満足・自己実現と、社会の役に立つことは、対立概念ではありません。

あえて言いますが「同人誌」だけで食っていける人は本当に一握りです。誰もが(少なくともコミケの出展権は抽選制なので)今回はよかったが、次期は売れないというリスクを抱えています。同人なめてはいけません。

自分の学業や就職活動に挫折した時に「同人やればなんとかなる」というほど、甘くはありません。

誰に対しても、同人が本当に言いたいことは「同人を自分の優越感や現実逃避や失敗した時の言い訳の道具に利用しないでくれ」だと信じます。

そして、それは実在の同性愛者の皆さんも同じです。


偏見を解消しようと思ったら、偏見のかたまりが来たのです。

もともと同人という言葉は、明治時代から、短歌や俳句や小説の同好会に所属する人々が使っていた言葉です。(ご維新以前のことは省略します)

彼(女)らの多くが旧制高校・女学校時代から表現活動を始めました。それは人生と芸道の先輩が書いたものを参考にしつつ、それに逆らって、新しい表現を求める挑戦の連続でした。

けれども、1980年代に、漫画および文芸同人の一部に強い偏見が発生したので、現代の若い人々が「もっと自由に描きたい・書きたい」といって、泣いているのです。

だから、偏見が発生する前は、二次創作やBLの分野でも、実際に今より自由でしたというお話をしているのが、ここのブログの中の人です。最初はSNSでつぶやきました。げんにSNSに、そういう若い人々の声(複数形)があったから、そのまま自分もSNSで発言したのです。

すると「あら、あなた田舎に住んでるから何も知らないのね。都会の同人誌即売会で同人やっていた私が本当のことを教えてあげるわ。同人誌ってゆぅのは、エロを書いて個人的に出展すれば、すぐ売れるのよw」

要約すると、こういうメンションが来ちゃったのです。いや、だから~~。

そういう偏見を持った中年が大勢いて、いばっているから、若い人が泣かされてるんですっていう話です。

当然ながら、その偏見を言っちゃった人は、若い人から抗議の声が挙がっていることを、つかんでいないわけです。せっかくインターネットが使えるのに、せっかくSNSに参加しているのに、何も調べていない。最新情報を得ようとしていない。

なのに「私のほうが詳しいわ」という顔をして、飛び出して来たのです。

そういう人は、おそらく現実でも早とちりで自信過剰なので、付き合いにくい人だから、あまり友達いないので、SNS依存症になっていて、見知らぬ相手に対して個人的に絡んで行くというふうになっているのです。

そして、もちろん、その状態に自分で気づいていないのです。

だから、ここでは、その経験を一般化して「自分自身を疑いましょう」というお話もしています。

派生的に「インターネットが悪いのではなく、その使い方の問題だ」という具合に、さまざまな偏見に対して「論点はそこじゃない」と指摘する記事が多い(つもり)です。

いまの若い人は、日本人は議論が下手なので国際社会で負けるという反省から、ディベートや小論文の授業を受けるようになっています。だから論理的な思考が身についています。

また「ゆとり」世代は、だてにゆとって来たのではなく、詰め込み知識でがんじがらめになっていないので、発想が斬新で、問題の本質を見抜く目を持っています。SNSにおける発言も、ひじょうに鋭いということがあります。

けれども、詰め込み時代に教育を受けた中年は、その後に自分でブラッシュアップを心がけていないと、本当に「あの頃」に覚えたことを、そのまま繰り返す人になってしまっています。

どうか、母親などのせいにせずに、自分で気をつけてください。

365記事を読んでから自分の意見をまとめても遅くないです。

どこのブログでも、サイトでも、新聞記事でも、学会誌でもそうですが、一日に一記事を読むとして、一年で365記事を読むことができます。それから自分の意見をまとめても、遅いことはありません。

なぜなら、毎年新しく18歳になって、それまで正直にアクセスせずにいたサイトや雑誌を閲覧して「ビックリした」とか「不思議に思った」という人がいるからです。

もしかしたら、大学で初めて「サブカル」という言葉を知ったという人だって、いるかもしれません。

現代でも、多くの国民が情報取得の第一手段に挙げるのは、テレビです。インターネットが占める割合は少ないです。

だから、SNSでは毎晩のように議論され、炎上を起こしているような話題について、一般の学生さんがまったく知らないということはあり得ます。だから真顔で質問する人もあるかもしれません。

そういう人々に対して、まずあなたが、責任もって冷静に対応できる人であってください。

「からかわれた」と思わなくていいです。「やっつけてやる」と思わなくていいです。

まずあなたが、すぐ興奮する人になってしまわないでください。

「私の同人誌を売ってあげようか~~?」とかいって自分だけ面白がったり、「そんなことも知らないの!?」といって見ず知らずの他人を怒鳴りつけたり、「遅れてる~~w」といって差別したりする人になってしまわないでください。

そういう態度は、創作クラスタ(制作者・愛読者)全体にとっても迷惑です。

ここのブログは、もともと単純に既成の創作物の感想文を載せておくところだったものですが、管理人は、SNSが青少年健全育成条例やTPPをきっかけに特殊な話題で炎上をくり返すことが気になった時期があって、端的には「もう少女ではありません」という注意喚起を試みたことがあります。

「少女ではないから、大目に見てもらえるなどということはないから、自分で気をつけましょう」という意味です。

その際に、まさに自分の権利を勘違いしている人が、ひじょうに子どもっぽい言葉使いで、自分勝手な自己主張ばかりメンションして来て、閉口したので「そもそも同人とは」というところから説明し直すことにしたものです。

だから説明的な記事もあれば、批判的な記事もあります。くり返しますが、あなた自身の意見は一年後にまとめても遅くありません。その間に、あなた自身が生活と精神の安定を確保できることを祈っています。

先々、何があるか誰にも分かりません。事件・事故・天災に巻き込まれるかもしれません。だからこそ自分にできることはしておきましょう。

若い人が、LINEから離れる傾向もあるそうです。「インスタ映え」も、大流行として認識された時点で終わったとも言えます。流行って、そういうものです。

だから、冷静になりましょう。面白いことを諦めるのではなく、流行を楽しめる自分と、冷静な自分を、両方持ちましょう。なにごとも「ほどほど」というのは、偽善ではなく、大切なことです。

なお、ここのコメント欄は切ってあります。お互いに「自分が正しいと思うのなら、そこで完結するべき話」だと思っています。


ここの同人・BL論の目的は、若い人の安全のために偏見を解消することです。

30代以下の若いBLファンからは「1980年代ふう過激路線にはついて行けない」という声が挙がっています。

単純に作風の好みの変化という意味もありますが、その他の理由として、中年が自らの経験と売上(バブル時代の武勇伝)を誇って、若い制作者・愛読者を差別するのだそうです。

いっぽう、女性が過激な作品を共有しているという先入観によって、男性が刺激されてしまい、若い女性に怪我をさせることもあるそうです。

中年女性なんて、もう誰も相手にしませんが、中年が自らの過激趣味を「進化したBLファン」みたいに思って自慢すると、そういう趣味ではない若い女性が若い男性に狙われるわけで、これは深刻です。

当ブログは、これらの問題の解消を願うものですが、女性の安全だけが確保されれば足りるとは思いません。実在のLGBT、とくに若い人々の日常が脅かされないことも重要だと考えます。

女性のBLファンの場合「女性キャラクターに感情移入できない」という自認を持っていることがあって、実在の同性愛の男性のことをも「女性を愛することができないからホモになった」と考えてしまい、まちがった仲間意識を持ってしまうことがあります。

また、トランスFtoMのことを、自分の同類だと思って、ひじょうに馴れ馴れしく付きまとうことがあり得ます。

「女性のBLファン」と、わざわざ申しますのは、世の中には少数ながらストレート男性のBLファンも存在するからですが、彼らが実在LGBTの寛いでいるお店まで押しかけて問題を起こしたとは聞き及びません。

どうも女性だけが「弱者特権によって免責される」などというデマを信じていて、傍若無人な振舞いに及ぶことがあるようです。

けれども、もちろん、二十四年組は、そのようなデマとトラブルの発生を願って、精魂込めて小学館漫画賞受賞作品を描いたのではありません。

またいっぽうで、二次創作BLと呼ばれるようになった作品群と、プロに代表されるオリジナル作品(いわゆる一次)としてのBL作品群、それぞれの愛好者が対立することもあるそうです。

どこの業界でも、作者や演技者は共存(共演)しているのにファン同士が喧嘩することはよくありますが、もともと特殊なサブカルファン同士の罵りあいというのは目も当てられませんし、一般SNS利用者の皆様のご迷惑です。

で、1970年代から二十四年組を知っている者として、なにが言えるかと考えた時に「偏見を解消してください」だろうなと思いました。

「そんなに笑いものにされたり、怪我させられたりするのがいやなら、BLやめればいいじゃん」という考え方もありますが、それでは差別と暴力に屈したということになってしまいます。

それよりは「ペンは剣よりも強し」の精神で参りましょう。

偏見が成立する前のプロ作品や同人誌即売会の様子を紹介すれば、現行のルーツとされるものが実際にはずいぶん違った形であったことが分かるでしょう。それは若い人々に「温故知新」という示唆を与えるはずです。

1984年までに女流プロが描いたものは、遠大な構成を備える長篇・中篇でした。それが「山場も落ちも教訓もない」などといって自虐していたという濡れ衣を着せられる筋合いはないのです。

また同人たちは、男女が互いに何を描いているか承知の上で、同じ会場に平和共存していました。プロを尊敬し、著作権問題によって迷惑かけないように自分たちだけ自虐しました。

いずれの作品にも様々な要素が含まれ、様々に試行錯誤する作者たちがいて、たいへん多様なものでした。

いまの若い人も、自分の信じるように、最大限の努力を傾注して描く権利があるし、すべての同人は平等ですし、誰からも差別される筋合いはないのです。

「そんなに真面目に考える必要はないw」と、からかわれる必要こそないのです。

「同人誌と言えば無意味に過激なアニパロに決まってる。でも男同士を描くとヤバイので、プロも自虐していた」と勘違いしたのは1980年代の中高生と、その成長後の姿でもある1990年代の社会学者。および「女性向けなら規制されない」というフェミニズムを利用した出版社の経営者である男性たちです。

1980年代の中高生(の好奇心を当て込んだベテラン同人)たちが過激なものを「売れ筋」ということにしてしまったから、その後のおとな達も「同人・BLといえばそういうものだ」と思い込んで、それに基づいて議論して、無自覚に偏見を再生産したのです。

そうすると、また「そういうものだ」と思い込んだ世代が参加して来ますから、より一層、同人・BLの世界がそういうものになっていくというループが起きたのです。

つまり、学者が自分でそういう世界を作っちゃったのです。学者ともあろうものが、それに自分で気づかないなら、情けないのです。

自らの先入観を疑い、既成の価値観を相対化する勇気を持ちましょう。

ツイッターと劣等コンプレックスは相性がいいので、自制しましょう。

SNSで奇妙な人に出会ってしまった経験がございまして、ご本人が「あれができない、これができない」といって自己露出し続けるのです。

でも本当にできない・したくもないなら、その話題から離れて、別の分野でフォロワーさんを集めたり、ブログを開設したりすればいいはずです。

逆にいえば、特定の誰かと自分を較べて「私にはあの人の真似ができない」といって怒る人は、その自他を較べてみようと思う時点で、まちがっているのです。

人類始まって以来、全世界の人間が、なんらかの不可能性を抱えているのです。例えば、一国の大統領や総理大臣といえども宇宙船の修理はできません。宇宙飛行士が大統領になったのでないかぎり。

ミス・ユニヴァースといえども、ワニの生態を知らない以上は、動物園の飼育員にはなれません。誰もにそれぞれの持ち場があって、そこで務めを果たせばいいはずです。

趣味の領域だって、ルアーフィッシングしたことがない人、ボートレースを見たことがない人、リリアンを編んだことがない人、マカロンを焼いたことがない人、いろいろいるはずです。

それらをいちいち我が身に引き比べて「ワニの話ばかりしないでください! だって私はワニの生態を知らないんですよ! 心が傷つきましたよ! どうしてくれるんですか! もっと配慮してくださいよ!」という必要はないですよね?

そういう、自分に向かって直接言われているのではないことを、わざわざ拾い上げて、いちいち横レスする人だったのです。複数のアカウントさんに対して、そういう言動を取っていたのです。

もし「できないと困る」というなら、カルチャーセンターにでも行けというだけです。生涯学習ではなく身心の機能の問題なら医者に行けというだけです。

どんな障碍でも対応策を見出すことはできるのです。例えば身体障碍なら義肢の発達によってパラリンピックが活性化したわけですし、精神面なら投薬・催眠療法・カウンセリングなど、いろいろあるわけです。

「そのカネがない」という場合は深刻ですが、自治体の無料相談窓口という方法もあることです。

ようするに、解決する気のないことを、できない・できないと言って、愚痴だけ聞いてもらいたがっているのです。ようするに同情を引きたがっているのです。

そして、そのできない理由として「母親が厳しい人だったのでトラウマになっている」というのです。

ここの人は、最初のうちは「何がしたいんだこの人」と思って、さんざん自分で考えました。で「トラウマ、トラウマといって可哀想ぶっているけど、ようするにトラウマって言い訳だよな?」と結論しました。

トラウマがあることが問題なんじゃなくて、「だからどうしたいのか」が問題なはずです。

そのトラウマを解消して、なんでも出来る人になりたいのか。トラウマを後生大事に抱えて、出来ない人のまま生きて行く覚悟を決めたのか。それだっていいのです。一病息災。

そうじゃなくて「トラウマがあるから出来ない~~」と言っているだけでは、話が廻ってしまいます。

そこへ、偶然のきっかけ(美容院に置いてあった)から『嫌われる勇気』を読んだので、「あ。劣等コンプレックスという概念は便利だな」と思いました。

努力したくない人が、自らの劣等感によって、周囲を支配しようとするのです。

残念ながら、ツイッターというのは、そのために好都合なのです。フェイスブックのほうは、もともと有名大学の名刺交換会なので、学歴・職歴を誇るという要素があります。

対するに、ツイッターは、フェイスブックありきで、そこでは言いにくい(腹へった等のくだらない)一言を漏らしてもいいという場所です。

だから、学歴も職歴も誇ることができない人が、だって仕方ないじゃんと言い訳したがり、社会のせいじゃんと責任転嫁したがり、あんたからみんなに言ってやってよと他人を頼るのです。

都会の一人暮らしに疲れた人が、母親がトラウマになっていると言いながら、実家の母子共依存を再現したがるのです。


ほんとうにダメだと思うなら、アップロードせずに書き直しましょう。

読者なめとんのか。甘ったれんな。これを言うのが、同人の世界でも当たり前です。

他所様のブースに押しかけて、面と向かって言うことはないので、同人が互いを甘やかすような現象も起きてしまったのですが、サークルに実体があって、上意下達が活きていた時代には、やっぱり先輩は後輩に書き方と心構えを教えたのです。

一部の同人が「山も落ちも意味もない」などといって自虐したのは、ほんとうに下手でいいという意味ではありません。

著作権の絡みがあった(今でもあります)ので、自分から存在を露出するわけには行かなかったからです。

逆にいえば「ここでは著作権のことは言わない約束」を守ることができる仲間どうしの範囲内でなら、最大限に努力した結果をお目にかけるのが当然です。

1980年代の一時期だけ、第二次ベビーブームと、それに先立つ数年間に生まれた多子世代が一気に流入した際、その数の勢いにベテランのほうが押されてしまって、一時的に画力も作劇もひじょうにレベルダウンしました。

が、それで終わらなかったのです。やっぱり自然淘汰が行われて、1980年代後半から画力が持ち直しました。だから、プロデビューする人も増えたのです。

初めは誰でも「にわか」であり、初心者です。修行が完成するまでは何も出さないと言っていると、一生なにも出せないので、どこかで見切りをつけて提出する・自分の実力を試すことに挑戦する時はあるのです。

イベントでも、オーディションでも、学科試験でも、卒業論文・卒業制作でも、その点では同じです。

そして、そこまで来て「まだ未熟だから」と言い訳しても、誰も甘めに採点してくれることはありません。売れないものは売れないし、合格しないものは合格しないのです。

泉鏡花の小説『歌行灯』(の映画化)に「相変わらずの未熟」という台詞がありますが、人間国宝級の小鼓方の言ったことで、これはカッコいい台詞です。すでに何十年もその世界の第一線で活躍して来たからこそ、昔をふりかえって「相変わらず」と言うことができるわけです。

まだ何もしてない内から言っちゃいけません。

若い人・アマチュアが未熟なのは、みんな分かってます。だからこそ、本人にどれだけ「やる気」があって、努力して来たか、その結果を見てやるというのです。

「努力しませんでした」が言い訳になるほど、世のなか甘くはありません。

他人の作品を見て「う、うまい。負けた」と思うのは、ほんとうにつらいことですが、それはあなたに向上心があるからです。

その場合「もうダメやばい~~私なんか全然ダメ~~」とかいって、バカ騒ぎして目立とうとしなくていいです。

黙って他人の作品を鑑賞しましょう。そして「なぜうまいと感じるのか」を考えましょう。なるほど、この色の隣りにこの色を持ってくることは思いつかなかった。どんな画材を使えばこのタッチを出せるのかな? スケッチの練習が足りなかったなどなど、いろいろ思いつくことがあるはずです。

文章なら、もう明らかに、それまでに読んで来たものによって、ボキャブラリーが左右されます。

実際に、美術家も、文章家も、互いに真似するから、何々派とか何々流というグループが成立するのです。

文章の場合、既成の市販作品を原稿用紙に写すという修行方法があります。改行や句読点まで、すべて書き写すのです。そうすると「あ、ここで改行すべきなんだな」と分かって来ます。

(あくまで練習なので、そのまま自分の名前で発表してはいけませんっていうか、すぐバレます)

学科の勉強の場合も「東大生のノート」などは、よく参考として公開されますね。新聞記者などが「効率的な検索方法」を公開していることもあります。

その時々に、できることをしましょう。現時点で自分史上最高と思う作品を公開しましょう。

そこまでやって、言えることがあるとしたら「いまはこれが精一杯」です。

そして、立ち止まらずに、もうその瞬間から、次の一歩を踏み出す人であってください。