MISHA'S CASKET

好きな言葉は残侠と耽美。モットーは温故知新。うぐいすリボン協賛中。

自分より条件の不利な若者を差別する中年に、救済措置は与えられないのです。

「私は都会の同人誌即売会に出ていたのよ。地方に住んでる子と一緒にしないで!」といって怒る人は、自分がその都会暮らしに挫折した時も、救済措置が与えられません。

与えられないことに決まっているというのではなく、本人が救済措置が得られるつもりで「ゲイと弱者の連帯できる」と宣言したんだけれども、そっちの世界でもうまく行っていない様子なので、ひとの心の動きというものを、ちょっと解説しておこうかなと思ったしだいです。

日本全国には、家庭の事情によって上京できない若者、大学進学を断念した若者、家業を継ぐことを決意した若者、地元の後輩を行政や福祉で支える決意をした若者、病気療養や身体障碍によって外出しにくい若者が大勢います。

誰も、東京に移住しない生き方を選んだからといって、他人から差別される筋合いはありません。

彼(女)らが余暇活動として「二次創作」というものを制作したり鑑賞したりすることが好きで、インターネット上から強制削除しないでほしいと望むなら、当方は全面支持します。

そういう話を理解しようともせずに、自分自身の都会進出だけを自慢する中年が、その都会で「独身は可哀想」と言われたからといって、急に「弱者の連帯」を主張しても、他の弱者から愛されないのです。

地方にもLGBT団体が成立している時代に、そのことを知ろうともせずに、自分自身の新宿二丁目進出だけを自慢しても、二丁目の諸兄諸姉もお困りになるのです。

彼らは地方の仲間を差別してやるために、都会で集まって威張っているわけではないのです。

事実として、LGBTの世界にも、最近上京したばかりという若者を「イジる」と称してイジメる先輩もいるかもしれません。

でも、誰よりも自分自身が「ゲイなら独身は可哀想と言われた私の悔しさ・悲しさを分かってくれる。きっと優しい言葉をかけてくれる」と期待して、彼らの仲間に入れてもらおうと思ったはずです。

なのに、なぜ、自分自身は自分より条件の不利な若い同人たちを否定し、自分の経験だけを誇ろうとするのか。

実際には、ゲイの世界にもDVがあり、金銭トラブルもあります。ゲイだから優しい・ゲイだから気が利くとはかぎりません。それを期待して行くなら、ようするに「お客さん」です。ゲイバーのサービスを利用させてもらおうと思っただけです。

それは、ちょうど、自分自身の金銭的利益のためだけに、同人誌即売会という場所を、ちゃっかり利用させてもらったということと同じです。

存在と表現の多様性を求め、誰からも差別されたくないという創作仲間の気持ちを共有した人ではないのです。


(※毎年若い人が巣立ちの時期を迎えると思い出すだけで、最近また何かあったというわけではないです)

あると思うな、ツイッター。

副題:「今年はツイッターで言い訳しない」と決めましょう。

どっかの大統領もやらかしてるようですが、やっちまってから言い訳するより、前もって慎重でありましょう。「言い訳できる場所がある」と思うと覚悟が決まりませんので悪循環します。


1945年2月、溝口健二『名刀美女丸』松竹京都

この仕事場を捨てるな。

これちょっと面白いですよ。溝口流撮影術フルスロットル。ドワーフをも驚嘆させる日本刀は、このようにして作られます。小狐コンコンが手伝ったのが小狐丸だから……。

戦時中にこれを撮っていた健二の度胸が頼もしいです。当然ながら、エキストラには若い男性がおりません。

もう明らかに製作費もないのでございます。オープンセットも建てられない(空襲されても困るし)ので、スタジオ内で粛々と撮ってるのでございます。しかしスタッフはベテランがそろっていたようで、夜空の星も再現しちゃいました。

かろうじて使用できる伝統的建築物の美観を活かした構図の深みも、まごうかたなく溝口流です。

DVD特典では新藤兼人の溝口への傾倒ぶりが分かって、それはそれで微笑ましいですが、じつは溝口はここでもやりたいことをやっていたと思います。

妹の力ではなく姉の力を感じることの多い監督ですが、歯に衣着せぬ台詞を言うことができれば言っちゃう人ですから、国威発揚映画しか撮れない折から、もう本当に考えて考えて、アイディアをふりしぼって、できる範囲でベストを尽くしたのです。

だって、ヒロインの最後の台詞は、当時のすべての女性が感じていた悲しみの裏返しのはずです。そう考えると、時局に対する痛烈な批判なのです。

なお「武家の式楽」であるところの『小鍛治』の謡も、ちょっと聞けます。

2018年1月1日、相棒スペシャル。

名台詞満載の豪華顔合わせ。入場料支払わずにテレビで観ちゃっていいんですかこれ。(ありがとうございます)

爆薬も軽機関銃もカーチェイスもない、レセプションの裏側の息詰まる頭脳戦。特殊効果が要らないわけで、比較的予算を抑えつつ、最大限の効果を挙げたのでした。ただしビックリするほど出演者は多いです。

右京さんと鏑城くんのキャラがかぶってるのが良いほうに作用して、相補的会話によってリズミカルに推理が進むのが心地良い。

レセプションを彩る太鼓衆は、もちろん事件も計画も知らないわけで、それぞれに精一杯役目を果たしているのです。

脚本は太田愛。ご婦人でしょうか。女性キャラクターの毅然とした佇まいからいっても、働く女性が理想を持つことができる時代になった…と言えるようであるところが嬉しいです。

女性が男にしがみついて、ふたこと目には「私はどーなるの!?」と、えらそうに叫んでいた1960年代映画に較べれば、やはり隔世の感があります。

権力に酔った男の浅はかな自己中心的計算くらい私の眼にはお見通し…というのは女性の言いたいことではあって、杉下右京はいわゆるフェミニスト(この場合は女性に迎合的な男という揶揄的な意味)ではないですが、頭がよすぎて通常の男社会から外れてしまう男というのは、女性にとって二重の意味でヒーローといえるでしょう。

ホームズは柔術の達人で、火かき棒をねじ曲げる腕力を披露したこともありますが、右京さんはそれもないので、まったくもって男の知能と誇りの平和利用なのです。

頭脳派の代表はポアロとも言えますが、あの気障な小男には常に作者・読者の揶揄の目線がつきまとう。いっぽう杉下右京は充分に気障でありながら失笑をはねのけるわけで(Vサインなどない)、開国以来西欧に憧れ続けた日本人のセルフイメージの最も美化に成功した例といえましょう。

骨太な権力批判は、時事問題を娯楽に利用することによって庶民の心に自己満足を生じ、かえって本当の社会の歪みから目をそらすという機能があるっちゃあるわけで、その意味ではむしろ山本薩夫や小林多喜二の作品のように、抵抗勢力がつぶされてバッドエンドという後味の悪さを残したほうがいいのかもしれません。

けれども、今回は右京さんがいつにも増していいこと言ってくれたわけで、いま本当に本当に必要なのは、若者たちが自分に負けないことなのです。あるいはこれもまた女性心理・母親心理を反映しているのかもしれません。

頭がよくても高校生。パソコン使えても高校生。「頭脳はおとな!」とぬかすのではない等身大の高校生。オッサンたちに追っかけられると、マジ怖いのです。

オンライン時代の弱点は、映像的効果からすると「指を鳴らすだけで思いのまま」という魔法と同じことですが、よくよく考えると魔法というのも『魔法使いの弟子』という話がある通りで、まず文字を読みこなすことから勉強を始めるのです。

スマホ一辺倒でキーボードの配列も知らない子どもが増えているそうですから、あるいはこういう高校生は魔法使いのように見えるのかもしれません。

なお、家族再会の場面を遠間から撮る溝口的構図がよかったですね。機材が変わっても撮影現場に受け継がれたものは活動屋の魂でした。

毛が抜けるほど嬉しかった?

元日にテレビバラエティ番組を拝見していたところ、いまどきの女子高生言葉として「ハゲた」を用例採取いたしました。

「今日、街を歩いていたら志村けんに出会って、超ハゲた」とか言うらしいです。ほんとかなと思いつつ。意味は「毛が抜けるほど嬉しい」と説明されておりました。

…女子高生なら、枝毛は気になるでしょうが、頭髪が抜けることには、あまり深刻さがないはずです。してみるとこれは…。

ネットスラングの「ハゲ同」から民間語源が発生しちゃったんじゃないかな、と。

他人の主張に賛意を示す言葉である「激しく同意」略して「ハゲ同」を知った女子高生が「毛が抜けるほど肯定的な感情を表す」という解釈を生じさせちゃったのでしょう。

はじめに言葉ありき。


寒中お見舞い申し上げます。

旧年中は拙文におつきあい頂き、まことにありがとうございました。本年もよろしくお願い申し上げます。

元日には平成の30年間を振り返るテレビバラエティ番組を拝見いたしました。政治・軍事ではなく「テーマパークの変遷」「スイーツの変遷」など庶民の話題に特化していたので、しみじみと来し方が思い返されたことです。

コンビニもAIBOもすごいことになっているようですが、これからの課題はロボットを点検・整備できる技師の養成になるのでしょう。申すまでもないですが、ハッカー対策などのデジタル技術者も一層厚くする必要があるのでしょう。未来の便利は若い皆さんの努力にかかっています。

逆に「アナログの価値の見直し」ということもあるはずで、薄い紙媒体の皆さんも引き続きがんばりましょう。

書道や盆栽が若い人にも人気というのは昭和の時代には考えられないことでしたが、平成に入ってからの「和」ブームというのは、あながち一過性のファッションではないだろうと思います。

民族文化も個人の多様性も、他との比較によって意識され、自覚されるものですから「外人さんの眼で観た日本らしさの逆輸入」というのは、それではいけないというものではないはずです。

「海外に出てみて分かった日本の良き伝統を尊重する最先端技術者」って、カッコいいと思います。

なお、今年20歳前後の若者たちが驚いた平成元年頃の現象ベスト3は、1位:消費税がなかった。2位:映画館は入れ替え制ではなく一日じゅうリピート鑑賞できた。3位:鉄道駅のホームも飛行機も禁煙・分煙ではなかったことでした。

アンケートというのは、問題を用意する時点でバイアスが掛かっているものですが、その範囲で納得のランキングだったと思います。

魔夜峰央の漫画作品『妖怪始末人トラウマ!』に、貧乏神という中年男性キャラクターが登場して「そっかー! 今の子は知らないのかーー!」と叫ぶ場面があるんですが、たいへん親近感を覚える今日この頃でございます。

夕刻からは恒例格付けチェック。一流芸能人のツーショットが眼の保養。

プロには敵うべくもないまでも和楽器に邁進する若者たちがいることが嬉しいです。ワインはむしろ日本人の舌に合う味を5000円で提供する努力を続ける関係各位にエールを送りたいと存じます。

プロ創作家から「やおい」というレッテルを削除してください。

副題:なぜ、二十四年組が二次創作の責任者にされているのですか?

もともと、ここの同人・BL論は「日本の漫画道のプロフェッショナル中のプロフェッショナルである二十四年組がアマチュア二次創作と混同されているのはおかしい」と指摘することが大きな目的の一つです。

が、主旨を勘違いして「同人のことなら私のほうが詳しいわ!」という人が来ちゃったので、話がややこしくなったものです。ので、今回は、初心に返って、プロの名誉回復というお話をいたします。

【プロと同人は別】

二十四年組というのは、1949年(昭和二十四年)頃に生まれたという意味で、高校を卒業する頃に漫画家デビューした日本女性の一群を指します。

とくに団体を結成したとか、共同執筆したというわけではないですが、仲が良かったので、ユニットのように称されるのです。文学史の何々派というようなものです。

で、彼女たちが、1970年代に入ると、女の子ではなく、女の子みたいに可愛い顔した男の子を主人公にした漫画を立て続けに発表しました。もともと少女漫画に出てくる男の子は女性的な顔立ちをしているものですが、ヒロインの相手役としてではなく、本人が主人公で、また別の男の子と喧嘩したり仲良くなったりする様子を描いたのです。

これが、現行の「ボーイズラブ」の源流ということになっています。

ただし、昔はボーイズラブという言葉がなかったので「やおい」という言葉で総称しました。ただし、これが間違いなのです。

もともと、美少年が登場する物語は、戦前(生まれ)の男性が書いていたもので、耽美派文学の一種と思われていました。だから女性が描いた漫画も「耽美」と呼ばれました。女性の小説家も似たようなお話を書くことがあって、これも「耽美」の名前で市販されました。

いっぽう「やおい」というのは、アマチュア(=同人)が使った言葉で、もともとは手塚治虫がいった「山場も落ちも意味もないお話なんか描いちゃいかんよ」という注意を、パロディにしたものです。

つまり「私たちが描いたのは山も落ちも意味もない(けど面白い)」という冗談だったのです。これが縮まって「や・お・い」になったというのが定説です。

で、同人としては「そういう私たちと、手塚治虫や石ノ森章太郎の直弟子である二十四年組ではレベルが違う」ということを、わきまえていました。

すでにみ~~んな知っていることなので言っちゃいますが、それは本当に下手だからという意味ではなくて、同人が描いていたものは著作権問題をかかえていたので、プロと同レベルのすばらしい作品だと思われて、一般読者やマスメディアに注目されるようじゃ困るのです。だから自分たちだけ自虐したのです。

なのに、谷崎潤一郎などの男性作家と区別して「女性が描いた男の子のお話」だけを特定する単語がなかったので、プロの作品まで「やおい」と呼ぶことが増えてしまいました。1980年代の中学生が混同したのが始まりです。

で、1990年代になると、1980年代に中学生だった人々が成人したので、その一部がわざわざゲイバーまで行って、実在の性的マイノリティに向かって失礼なことを言うという事件が続発しました。

で、日本のゲイコミュニティが「やおいには困る」といってクレームしたんですけれども、そのクレーム文書を受け取った日本の学者である成人女性たちは、なぜかプロ漫画家やプロ小説家に「なんであんなもの書いたんですか」とインタビューしたり、なぜ私たちは男の子のお話を読む必要があったのか、と自分の少女時代の思い出話をするようになってしまいました。

けれども、ゲイのほうでは、事前に話を煮詰めてあって「プロ漫画家が描いたものがアマチュアに影響を与えて、アマチュアたちが換骨奪胎した形で流行させたものが、子どもに悪影響を与えている」と的確に指摘しました。

つまり、彼らとしても「プロのことは『やおい』とは呼ばない」ということを分かっていたのです。

しかも、すでにその時点で「ボーイズラブ」という総称が商業的に使われ始めていました。

けれども、社会のことをよく分かっているはずの社会学者や評論家が、あわてふためいてしまったのです。そして「プロでさえ、山も落ちも意味もないものを描いたといって自虐していた」という話にしてしまいました。

そこから「女性がそうやって自虐しなければならないのは、男性が女性を差別するからなので、差別しないでください」という女性の権利運動につなげて行ったのです。

その結果、女性はゲイコミュニティからの苦情を気にせずに、好きなように書いて発行することを続けてよいということになったので、少し前まで年齢制限さえされていなかったのです。

だから、フェミニストたちが「やおいは私たちのものです!」といって自己弁護の論陣を張ったのは、BL全体の発展のためには良かったんですが、プロは濡れ衣を着せられてしまいました。

精魂こめて、小学館漫画賞を受賞するほどの傑作を描いた人々が「くだらないものを描いてごめんなさい♪」といって、自分をも読者をもバカにしていたという濡れ衣です。

また、二次創作BLという物も、プロ漫画家の責任ではありません。

1970年代以来、可愛い男の子のお話を描いて、女性読者に少女漫画とはまたちがった面白さを提供してくれたのはプロの功績ですが、他人の作品を無断で利用したのは、同人たちの勝手です。

その同人たちを「でも面白いし、実在の子どもを傷つけるというほど悪いことではないので、あまり厳しく追及しないでやってください」といって弁護することは可能です。

けれども、プロと混同していいことではありません。万が一裁判になった時にも「男の子の話である」ことと「他人の著作権を利用している」ことでは、意味が違います。

だから、ここのブログ管理人は「プロに間違って自虐していたという意味のレッテルが貼られているが、それはやめてほしい」と思っています。プロ自身や、プロ作品を紹介する文章から「やおい」という単語を削除してほしいと思っています。

また「やおいは二十四年組から始まった」といった文章も訂正してほしいと思っています。

プロは自虐していません。一生懸命描きました。外国の文学も読みました。外国の歴史も調べました。音楽についても調べました。建築物や服装も調べて、正しく描きました。

もし若いあなたが、40年前の作品群を、まだ知らなかったら、心静かに読んでみて、再評価してあげてください。プロは自虐していません。まちがえたのは1980年代の中学生と1990年代の社会学者です。

そして、若いあなたも、自分の創作活動を頑張ってください。一生懸命描いたものを自虐する必要はありません。読んでくださる読者さまに対しても失礼なことです。「どうせ、どうせ」といって傷つけ合い、馴れ合うことを、そろそろやめにしましょう。

【ご協力願い】

あらためまして、プロ漫画家・小説家自身、およびその作品を紹介する文章から「やおい」というレッテルを削除してください。

可能なら「やおいと呼ばれた時期もあるが間違いである」という、ただし書きの形を取ってください。

また「やおいは二十四年組から始まった」といった文章の訂正を望みます。

こういうことは、かえってジョークのネタになってしまう・やぶ蛇ということがあって、言い出しにくいものです。だからハッキリ言う人もあんまりいないのです。

けれども、紫綬褒章受賞者をふくむプロ創作家たちの名誉回復のために、ご理解・ご協力を賜りますよう、ひらにお願い申し上げます。


「東京へ来たーー!」は、自粛しましょう。

芸能人が参加するかどうかで少し揉めたことからも分かるように、日本のサブカルの世界には、厳しい先輩が確実に存在します。

まことに残念ながら、常日頃からカッコいいテレビアニメやゲームに浸っているので、現実の世界で自分が日本国民の一人であることを忘れて、他人様に気配りすることを忘れてしまう者も、確かに存在します。

とくに二次創作というのは、もともと著作権法では禁止されていたことを、コミケの中では怒る人がいないからといって、わざとやって、第三者に見つかったら屁理屈をいって、さしあたり逮捕しないでおいてやるという話にしてもらったという、ものすごく微妙な状態でしかありません。

青少年健全育成条例関連の危険視というのも、まだ続いています。

だから、サブカルの先輩たちというのは、ほんとうに自分勝手な連中だと思われないように、すごく気を使っています。行列を乱して騒がないのも、会場をきれいにしてからお返しするのも、そのためです。

会場の外でも自分に気をつけましょう。駅のホームで長いものを振り回してはいけません。駅舎の出口に向かって走ってはいけません。一般乗降客にぶつかって怪我でもさせれば、コミケ全体の閉鎖もあり得ます。マジです。世論を甘く見てはいけません。政治家が世論に配慮した瞬間に終わります。

「経済効果があるから終わるわけないじゃんw」じゃないです。だったら何やってもいいのではないです。駅員さんに呼びかけツイートさせるようじゃコミケの恥なのです。

だいぶ寒くなったので、徹夜したい人はいないかもしれませんが、徹夜で行列というのも、してはいけません。参加者どうしの約束さえ守れない人は行かなくていいです。

会場の中に入ったら、出展者を指さして笑いものにしてはいけません。すべての同人は平等です。あなたの好みに合わない人は、あなたよりレベル低い人ではありません。礼儀をわきまえず、他人を差別する者のほうがレベル低いのです。よく覚えておきましょう。

オシャレを勘違いしなくていいですが、入浴して、洗濯した服に着替えてから家を出ましょう。

偏見ではなく、参加者の声を総合したうえで申しております。大丈夫ですか? 自分のことしか考えない人ではなくなりましたか? では行ってらっしゃい。

よい年末年始でありますように。


日本の神さまとは、ご先祖さまです。

元来、日本の神さまとは、自分自身のご先祖さまのことです。

先カンブリア時代に生命が誕生して以来、地球が太陽の周囲を何十憶回も公転する間に、いろいろありましたが、どっかでどうにか遺伝子がつながって、現在のあなたがあるのです。

日本人の多くが、お葬式(お墓)は仏式ですが、経典を詳しく研究した人は多くありません。聖典を読み込んだうえで神学論争(または仏学論争)してるわけではなく、自分のご先祖さまに手を合わせているのであって、その点では仏教伝来以前の原始的信仰から変わっていないのです。

仏教が渡来すると、すべてを灰に帰すという習慣が広まったんだけれども、日本人は、灰を持ち帰るという方法を編み出しました。

仏教的発想としては、魂は不浄な容器である肉体を離れて浄土へ行って喜んでいるはずなんだけれども、日本人は、遺骨に魂が残っていて、生家に帰れないことを嘆いているように思う。

その心理の底にあるのは「なくなった人を生まれた土地に埋めてあげると、作物の実りを支え、子孫繁栄を保障してくれる。すなわち神さまになる」という原始的信仰。(このへん佐伯彰一の受け売り)

じつは、日本人は無宗教なんじゃなくて、原始的な祖霊信仰・穀物を司る女神信仰を、意外なほど強固に残しているのです。もともと教義・戒律として編纂されていないから「神が何々とおっしゃった」というふうに日常的に引用することがないので、あんまり意識しないんですけれども「無」宗教ではないのです。

だからこそ、外来宗教に基づく祭礼行事を「仮装してプレゼント交換する日」として、コマーシャリズムに乗っかって、表面的に取り入れることができてしまう。

逆にいえば、それをしたからといって、祖霊信仰を捨てるわけではないわけです。クリスマスの一週間後には神社に行けてしまうのです。

だから、お盆とちがって、お正月は帰省しても「まずお墓参り」とはあまり思いませんけれども、あれもちゃんと理屈が通っていて、氏神さま参りは祖先礼拝なのです。

有名な大社に祀られている神さまも、もともと山の神・湖の神・穀物の神として祀られていた存在ですから、庶民にとって、もっと身近な祖先の霊がそれぞれの里山・田畑の守り神になったのと相反するものではないのです。

それは庶民の分際で、えらい神さまに対して不敬であるってことじゃなくて、その地続き感・一体感こそ日本古来の信仰であり、日本国民の一体感の源泉なのです。

国民の中には、ひじょうに熱心にお寺に通う・毎朝お経をあげるという人もいます。キリスト教徒もいます。でも自宅には神棚があったりします。職場に神棚があることもあります。それは日本の国土を守ってくださる神さまだから、その神さまに守られた上で外来宗教を学ぶことは矛盾しない。あたかも肉親の庇護下に外国語の読み方を勉強するように。

ちゃんと理屈が通っているのです。ひじょうに有名な仏教寺院を開設するに当たって、まずその山の神さまに「これから仏教寺院を建てますが、末永くお守りください」とお願いしたというところもありますね。

そしてこの、プリミティヴさの無自覚と一体感(混同)と表面性は、日本社会のいろんなところで顔を出すわけですが、今回はそれはいいとして。

初詣に行ったら、えらい神さまにひとつよろしくお願いするのと同時に、自分のご先祖さまのことも思いながら、元気よくかしわ手を打ちましょう。それは、えらい神さまと自分の直接のご先祖さまに呼びかけ、自分のことを報告し、今後ともよろしくお頼み申す仕草です。

自分が自分ひとりの体ではないことを思って謙虚になると同時に、安心感を頂く。具体的に何をもらえるとか、何を保障してくれるというわけではないんだけれども、なんとなく「来てよかった」と思える。ちょっと気持ちが晴れる。そういう行為を「祈る」といいます。

二礼二拍手一礼が基本かつ正式ですが、混雑時は係員の指示に従いましょう。

よい年末年始でありますように。

同性婚を認めることは、あなたが離婚することではありません。

同性婚を認めるということは、異性婚を否定するということではありません。

自分が結婚していて幸せだから、同性愛者の幸せも祈ってあげればいいのです。

「同性婚を認めるとみんなホモになってしまうから子どもが生まれなくなるので国家が滅びる」というのは、古くからよくある誤解です。あなたもなるんですか?

なりませんね。では落ち着いてイメージしてみましょう。結婚した男女が100組います。いっぽう、結婚という形が認められていないので、籍は入れていないが同居している男同士が50組と、女同士が50組います。

もし同性婚を認めれば、既婚者は何組になりますか? 200組ですね。

同性カップル100組を認めたら、その代わりに男女カップル100組が離婚する必要はないのです。

この誤解が起きやすい一因は、結婚制度からの解放を求める女性が「ホモが結婚するほどバカげた世の中になったんなら、私だって自由になりたいわ」という具合に話を混同するからです。

だから、女性が本当にゲイの幸せを祈るなら、自分は結婚制度の枠の中に留まればいいのです。同性婚を認めても、社会が混乱しないという安心感を、ゲイとストレート男性の両方に与えてやればいいのです。

そのうえで「結婚生活が女性の不利にならないように工夫していく」というのが、少なくとも穏健派フェミニズムの針路です。