クロウ版『ロビン・フッド』雑感。付:大河とプルー作品の感想。

足で探す時間が取れないので映画DVDはツタヤ◯ィスカスから2枚1組で送ってもらっている。今回は『ロビン・フッド』と一緒に『グラディエーター』を借りたので、なんか「夜が明けても同じメンツで飲み会を続ける」みたいな感じなのである(笑)

次の壜の栓を抜く(← あえて昭和っぽく)前に「娯楽作品で現代的なテーマを語る件」についてまとめておこうと思った。筆の勢いで大河について思ったことと、先日提出したアニー・プルー発言への疑問への一応の解答でもある。(自分で提出して自分で決着をつけるのは悪いことじゃないはずだ)

さて「異教徒の首をはねたとき自分の神を失う」って言葉でアメリカの監督(&脚本家)が何を言わんとしているかは考えるまでもない。



そこをスルーしてなのか、汲みとったからこそなのか分からないが、明らかにそういう意図が読み取れる映画をヒットさせる米国人はいろんな意味で大したもんだと思う。

例えば今のいま、日本で「テレビタレント出身の若者が民衆の支持を得て独裁政権をうちたて徐々に危険な方向へ進む」と描けば、意味は説明するまでもない。

こういうのは面白い人には面白いのだけど、現実を思い出して白けてしまう、純粋なフィクションとしての面白みを損なうという面もある。「ロビン・フッドの伝説の映画だと思ったのに違うじゃん」という感想は当然である。
007は東西冷戦がなくなればいいのに、と批判・皮肉をいったわけじゃない。あれは考えないからこそ楽しめる。
いっぽうで「壁がなければこんな悲劇は起きなかった」という『マスター・キートン』みたいな作品もあり、ではあれは娯楽ではないかというと、「悲劇を味わう」という娯楽ではある。

「あの時代はそうでした」「現代的な価値観で批判しても意味がないです」といえば歴史の授業である。現代的な感性を反映させてこそ現代人の創作物である。それはそうだ。

大河の話をしてしまうと、だからあの時代の女性の口を借りて女性の自由意志を尊重する物語をかたるのは悪かない。けど「神様の力で幸せになるのは嫌だ」とまで言うと不遜に過ぎる。「親が子の幸せを願って縁結びの神さんに詣でることの何が悪いんだ」と思う人には理解不能だったろう。(親の面前で娘を怒鳴る男ってのも「こんな婿いやだ」と思わせたかもしれない)

(以下ちょっと性的な話題)

若い男が上流婦人に憧れる気持ちだって要するに「あんないい女といっぱつやりてェ!」ってことで充分だ。「そうだそうだ」と思う人が多ければ娯楽として成り立つ。「私こそ抱かれたい」と若い男のいきり立つような性欲にエロスを感じる人も支持するだろう。
それが「俺への愛をかきたてることを貴女の生きがいにさせてやりたい」と来た日にゃ「男の一物をつっこむことが女にとっての救いになると本気で思ってんのかよw」「しかもそれが受け入れられなかったから切れて出家すんのかよ」「どんだけナルシストなんだよw」って話だし、しかも実はそのツッコミをこそ狙っている、男性のナルシシズムを皮肉っている、となったらもうついていけない人は多かっただろう。少なくとも私はあの回でドッと疲れた。(終了)

話を戻すと、007は壁がなくなればいいのにと言ったわけではないが、代わりに「あり続ければいいのに」と言ったわけでもない。自由な(はずの)国に住む市民の一般的な感覚として、「なくなればいいのになァ」という気持ちは心の底にいつもあるだろうし、あるべきだが、あえてそこは問わないで、現に壁が在るから、在るという前提で起こりうるドラマを悲喜劇として描いただけだ。

人の心の壁はどうか。現に在るから、在るという前提で起こりうる悲劇を描いたとき、それは壁に苦しむ人を嘲笑する行為にあたるのか。「壁がなくなればいいと思います」という気持ちが作者にあったのかどうか。あるべきか。「全くない!壁は高いままのほうがいい!」と言い切るのは……だめだろう人として……(勿論やおいはここをツッコまれたのだ)

だとすれば「なくなればいいと思います」という主張を作中で名言するべきなのか。これは「壁をなくそう」というプロパガンダとして書いたのか。当事者の気持ちを代弁したものなのか。当事者の気持ちを代弁する権利は非当事者にあるのか。当事者と事前に連絡はとったのか。

「代弁した」と受け取られることを避けたいのであれば、「皆さんに知って頂きたい、彼らのこれがリアリティです」と受け取られることを避けたいのであれば、「そんなに思い上がっていません、(女性の娯楽として)普遍的なロマンスを描いたのです」と言い訳することになろう。メロドラマ上等。いいと思う。プルー作品の場合は結果的に「代弁してくれた」と受け取られたようだけども。

ここで百歩譲って、非当事者が当事者キャラクターにその心を語らせる(つまり白人監督が黒人キャラに「対等に扱え」と言わせる、男性脚本家が女性キャラを活躍させる)のは、その主張を認めたことを意味する。

したがって創作は、「利害関係をもつ人の主張を受け入れたものを万人へのプロパガンダとして提出する」(これはいわゆる「大本営発表」として独裁政権の宣伝にもなりうるし、平等・博愛など市民感覚にうったえる自由賛歌ともなり得る)か、
「いっさいの政治的主張を排して(また排していることを表現するために)娯楽としての面白さを追求する」か、を両極端とする。

前者は教育臭がして創作物の興趣をそこなう危険・また「その話題自体を避けたいと思わせる」危険をはらみ、後者はエログロに走りがちで、見た人を鼻白ませ、話題の当事者、また共感者(つまり主役として描かれた人物ご本人や、そのファン等)を「娯楽にしてもやり過ぎだ」と憤らせる。

つまりそういうことがBLにも起きているんだなという結論になりがちなのは、そもそも映画も自分の創作の勉強と思って観ている面があるからで、それがまともな作品に結実するかどうかは分からないが、こうして根掘り葉掘り考えながら観るのは、それはそれで面白いのである。

といった辺りで『グラディエーター』いくぞー! サンダル&スウォード萌えー! 髭&筋肉上等!(景気づけに叫ぶ)
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