本当にトランスゲイなら、二次創作BLは書かない。

彼らは自分自身をモデルにセミドキュメンタリーを書いて、それを男性的なペンネームで『薔薇族』に投稿するのが筋です。

原稿は郵送すればいいので顔出しする必要ありません。伊藤文学が仁義を守ってくれる男なら「この作者、本当は女です!」と暴露しないでおいてくれたでしょう。

また、トランスだから他人のものを無断利用するのは当たり前ということにもなりません。トランスに失礼です。

1998年のトランスゲイ説は、プロ作家としてオリジナル作品を全国公開していた人の自己申告であって、すねに傷もつ二次創作同人活動の説明にはならないのです。

ならないんですけれども、1998年の時点で日本社会の著作権意識が低かったので、榊原の解説書を読む批評家・読者のほうで彼女のようなプロ作家とアマチュアたちを混同してしまっており、説明になっていないことに気づかなかったのです。

それをうかつに「やおいは女性の権利です!」などといって海外の議論の場へ持ち出せば、海外研究者から「これは日本ではフェアユースとして認められているのか?」などの鋭い質問を受けて、日本人研究者のほうが「うっ」となるだけでしょう。(海外の研究者と連帯しようとした人々がいたらしいのです)

なんで日本人は議論が下手なのか?

やっぱり、批判されることに慣れていないのです。国境を越えて集まる人々は、それぞれの国・地域・民族文化を体現していますが、それ同士が暗黙のうちに通じるということがなく、前提を共有できませんから、愚直なまでに論理性と明文化された規則を重視するのです。そこは言わなくても分かるってことがないのです。

日本人は、その視点で「前提を疑う」ってことが少なく、みんな分かってるつもりで話を進めてしまうので、プロの研究者といえども、時々やらかしてしまうのです。

島国根性とマジョリティの横暴は同じもの。自分を疑わずに他人のことだけ「おかしい」といえば、差別です。

そのくらいなら議論しないほうがいいです。プロに失礼です。


(なお、表題はBLの発生の説明に対する批判です。現代のトランスゲイは、すでにBLまたは二次創作BLという技法を自分のものにして、楽しく自己表現している可能性があります。

これに対して、他人が「お前は女かトランスかはっきりしろ」と迫ることは、もちろんプライバシー侵害であり、人権侵害です。

この意味では、榊原の言い分は、それ以上の詮索を防ぎ、不毛な水掛け論に終止符を打つという効果を挙げたのです)


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