「BLとゲイは別」だから、自分の差別意識に気づかない。

もし、ストレートが「同性愛者といえばゲイバー。おネエ」というふうに思い込んでいれば、ドリンク代さえ支払えば歓迎してもらえるし、愚痴も聞いてもらえると期待してしまいますわね。

いっぽう、創作活動していたという人が他人の心理を忖度することができないなら、なにを意味するのか?

書いていたものが即物的だったのです。「山も落ちも意味もない」という言葉を真に受けて、どこをどうしたという行為の描写ばかり羅列していた。すると「心理描写重視なんていう読者はいないよw」といって、コミケの常連ぶってしまうわけです。

実際には、自分がそういう偏見を持って、そういう自費出版ばかり用意して行けば、それでいいという顧客だけが行列するのは当然です。じつは一般参加者によって、自分のほうが「そういう出展者」として見切られ、特定され、選別を受けていたのに、自分を普遍的な存在だと信じていた。

その「マジョリティの横暴」をかかえたまま、ゲイの世界に突入すれば、ただの空気読めない女です。

その「自分自身の偏見に基づいて、コミケの客に合わせた自費出版だけ用意する」という戦略性をひと皮むけば、旧来の社会通念そのままの「同性愛者=オカマ=面白い」という偏見が顔を出すわけです。

これが「山も落ちも意味もない」同人活動の本質。1990年代の時点で、日本のゲイコミュニティが見切っていた通りです。

いっぽう、日本の女流プロ漫画家たちは1980年代半ばの時点でエイズなどの社会問題に取り組み始めていたので「意味もない」などと言われる筋合いはないのです。

けれども、商業誌よりも私たちのほうが売れているといって天狗になっていた同人は、そういう動きにも気づかなかったのです。

だから、日常的な現実の存在としての同性愛者が、むしろ偏屈なふつうの男性であって、女性の社会進出をこころよく思っていないことや、むしろ女性よりも精緻な傷つきやすいプライドを持っていることには思い至らないのです。

新宿二丁目はコミケではありません。あなたの仲間がいるところではありません。

関連記事