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日本の神さまとは、ご先祖さまです。

元来、日本の神さまとは、自分自身のご先祖さまのことです。

先カンブリア時代に生命が誕生して以来、地球が太陽の周囲を何十憶回も公転する間に、いろいろありましたが、どっかでどうにか遺伝子がつながって、現在のあなたがあるのです。

日本人の多くが、お葬式(お墓)は仏式ですが、経典を詳しく研究した人は多くありません。聖典を読み込んだうえで神学論争(または仏学論争)してるわけではなく、自分のご先祖さまに手を合わせているのであって、その点では仏教伝来以前の原始的信仰から変わっていないのです。

仏教が渡来すると、すべてを灰に帰すという習慣が広まったんだけれども、日本人は、灰を持ち帰るという方法を編み出しました。

仏教的発想としては、魂は不浄な容器である肉体を離れて浄土へ行って喜んでいるはずなんだけれども、日本人は、遺骨に魂が残っていて、生家に帰れないことを嘆いているように思う。

その心理の底にあるのは「なくなった人を生まれた土地に埋めてあげると、作物の実りを支え、子孫繁栄を保障してくれる。すなわち神さまになる」という原始的信仰。(このへん佐伯彰一の受け売り)

じつは、日本人は無宗教なんじゃなくて、原始的な祖霊信仰・穀物を司る女神信仰を、意外なほど強固に残しているのです。もともと教義・戒律として編纂されていないから「神が何々とおっしゃった」というふうに日常的に引用することがないので、あんまり意識しないんですけれども「無」宗教ではないのです。

だからこそ、外来宗教に基づく祭礼行事を「仮装してプレゼント交換する日」として、コマーシャリズムに乗っかって、表面的に取り入れることができてしまう。

逆にいえば、それをしたからといって、祖霊信仰を捨てるわけではないわけです。クリスマスの一週間後には神社に行けてしまうのです。

だから、お盆とちがって、お正月は帰省しても「まずお墓参り」とはあまり思いませんけれども、あれもちゃんと理屈が通っていて、氏神さま参りは祖先礼拝なのです。

有名な大社に祀られている神さまも、もともと山の神・湖の神・穀物の神として祀られていた存在ですから、庶民にとって、もっと身近な祖先の霊がそれぞれの里山・田畑の守り神になったのと相反するものではないのです。

それは庶民の分際で、えらい神さまに対して不敬であるってことじゃなくて、その地続き感・一体感こそ日本古来の信仰であり、日本国民の一体感の源泉なのです。

国民の中には、ひじょうに熱心にお寺に通う・毎朝お経をあげるという人もいます。キリスト教徒もいます。でも自宅には神棚があったりします。職場に神棚があることもあります。それは日本の国土を守ってくださる神さまだから、その神さまに守られた上で外来宗教を学ぶことは矛盾しない。あたかも肉親の庇護下に外国語の読み方を勉強するように。

ちゃんと理屈が通っているのです。ひじょうに有名な仏教寺院を開設するに当たって、まずその山の神さまに「これから仏教寺院を建てますが、末永くお守りください」とお願いしたというところもありますね。

そしてこの、プリミティヴさの無自覚と一体感(混同)と表面性は、日本社会のいろんなところで顔を出すわけですが、今回はそれはいいとして。

初詣に行ったら、えらい神さまにひとつよろしくお願いするのと同時に、自分のご先祖さまのことも思いながら、元気よくかしわ手を打ちましょう。それは、えらい神さまと自分の直接のご先祖さまに呼びかけ、自分のことを報告し、今後ともよろしくお頼み申す仕草です。

自分が自分ひとりの体ではないことを思って謙虚になると同時に、安心感を頂く。具体的に何をもらえるとか、何を保障してくれるというわけではないんだけれども、なんとなく「来てよかった」と思える。ちょっと気持ちが晴れる。そういう行為を「祈る」といいます。

二礼二拍手一礼が基本かつ正式ですが、混雑時は係員の指示に従いましょう。

よい年末年始でありますように。

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