【やおいは、トランスゲイではない。】

「自己実現の困難さゆえに摂食障害を発症したトランスゲイ男性が、ピンクハウス・ブランドのロングスカートで少女らしく装い、男同士の性愛は異常であることを前提に、少女漫画の技法によって、化粧した少女のような男性ばかりが登場するメロドラマを描いて、泣ける~~といって喜んで消費した挙句に、新宿二丁目に押しかけて、自分以外の実在ゲイ男性を侮辱した」

これは、ないだろう。

松岡正剛でさえも、こと「やおい」という特殊な表現に関しては言葉をにごしている(『千夜千冊』)のが面白いといえば面白いが、ちょっと気になるので書いてみる。

1970年代に高校生だった人は、1980年代には成人した。成人すれば、夜の街へお酒を飲みに行くことができる。新宿二丁目とは、そのような歓楽街だ。

まことに残念ながら、女性が新宿二丁目まで押しかけ、実在のゲイに付きまとった・失礼な質問をしたという話は、1980年代初頭から継続的に存在する。

もしも、自分の兄弟・息子・親友がゲイだったら? 「お願い。そっとしておいてあげて」と思うはずだ。

トランスゲイとは男性である。ゲイとは男性である。男性社会の一員として、共同体に受け入れられたいはずの者が、なぜ同じゲイの心が分からず、人生の大先輩たちに無礼を働くのか。

仮に「やおい作家」は全員が男性で、実在の先輩たちに対する礼儀をわきまえており、読者は女性であって、礼儀をわきまえていないとするならば「かつて読者で、やがては作家になった女性」と、自分では書かない女性には、なんの違いがあるのか。

仮に、男性が自己表現として書き、女性が読むとして、女性は読む必要がないではないか。話が空回りしてしまう。

第一、トランス男性が著作物の中で自らの性自認について告白する機会を得たならば、一般社会に対しては権利の保障を、全国の仲間に対しては大団結を呼びかけるべきであろう。

なぜ、トランスゲイとしての活動が、空想的な官能小説を書くことに限定されているのか?

「じゃあ作家の中に本当のトランスゲイが何人いるか、アンケートを取ってみよう!」という話ではない。「少し考えれば、話がおかしいことが分かるでしょ!?」という話だ。情報に接する態度の問題だ。

【大喜利が好きすぎる】

日本人は途中で考えることをやめてしまう。「あ、そーなんだ」で納得してしまう。大喜利が大好きで、うまいこと言って座布団一枚もらうことが生きがいだ。

しかし、客席から質問されることを想定していない。「それはどういう意味ですか?」と説明を求めることは野暮とされているからだ。

だから、政治家でさえ国際的インタビューの場で、やらかしてしまう。「昔のイギリスとドイツみたいなもんですよ(なんちゃって)」と言ってしまう。が、海外記者は「なるほどーー。うまい!」などといって笑ってくれない。真顔で「開戦するということですね?」と訊き返す。日本の政治家は、途端にあわてる。

同様に、女流と見られていた作家が「じつは私たちは全員が女性に見えますが、トランスゲイだったんです」と申し立てた場合に、周囲が真顔で反応して「それはつまり、数十万人のコミケ参加者が精神科医による診察と性別適合手術を望んでいるということですね?」と言われたら?

「い、いや、そういう意味では…(汗)」と言うなら、どんな意味だったのか。

なお、この文章は、特定の作家を非難することを意図していない。ボーイズラブ作家にはトランスゲイ男性が絶対に一人もいないとも言わない。

ただ、いまに至っても、BLを好む女性はトランスゲイという説を発表してしまう研究者があり、聞いた人が単純に「そーなんだ」と思ってしまうこともあるようなので、一考を促したいと思った次第だ。

もし、性的少数者の自己実現が困難であることが指摘されたならば、人権擁護の観点から、医療者・法律家による助力、政府・自治体による資金援助などの対策が、すみやかに講じられるべきである。

そもそも、男同士の愛が不毛なのは、マジョリティ社会が同性婚と児童養育を認可しないからである。

「私たちトランスゲイが差別されることは当たり前なので、ほかのゲイ男性が読んだら怒るような偏見に満ちたポルノグラフィと、女性のナルシシズムにとって都合のいいハーレクインロマンスが混ざったような創作物ばかり制作するのも、致し方ないことです」というところで収まってしまうのが不適切であるのは、言うまでもない。

一方「やおい」を論じた書物を「悲しい」と感じるなら、それは多くの場合「せっかく書いたものが受け入れられず、なぜ? なぜ? と突き回される女性」の挫折感による悲しみである。

自分で差別しておいて「可哀そう」と言うのは、よくない。

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