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1975年、ミロス・フォアマン『カッコーの巣の上で』

製作:ソウル・ゼインツ、マイケル・ダグラス 脚本:ローレンス・ホーベン、ボー・ゴールドマン 原作:ケン・キージー 撮影:ハスケル・ウェクスラー

健常と異常。抑圧と依存。女権と男の誇り。嗚呼、アメリカン・ニューシネマ!

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1975年度のアカデミーおよびゴールデン・グローブ作品賞・主演男優賞・主演女優賞・監督賞・脚色賞を総なめにした傑作中の傑作。まず、リアリズムに圧倒されます。それもそのはず、現役の建物に住み込んで、本職と素人さんたちの協力を得て撮影が敢行されました。

なんていうと深刻な大作映画みたいですが、まずは単純に面白いので御覧ください。各登場人物の表情の変化を丹念にとらえるカメラと、溝口ばりのロングショットを組み合わせて、巧みに観客の感情移入を誘う緻密な編集は、英国アカデミー編集賞をも得ています。

やや陰鬱な、シニカルな雰囲気からジワジワと人間賛歌を盛り上げるセンスはヨーロピアンですが、それも道理で、監督がチェコスロヴァキア(当時)の人でした。

原題:One flew over the cuckoo's nest。邦題からすると「郭公の巣の上で何が起こったか?」ですが、原題は、より明示的に物語の方向性を表しているようです。微妙に漂う不気味さは、やっぱりマザー・グースが典拠だから。

もとは1962年に発表された小説で、当時の政策を反映した話題作。翌1963年に戯曲化され、カーク・ダグラスの主演で上演が実現しました。その映画化までの紆余曲折も、軽いミラクルです。

上演権と映画化権を押さえていたカークが、映画化しようとして果たさず、息子に引き継がせた挙句の快挙ですから、クレジットされたのは息子の名前ですが、親父の執念が咲かせた花と言うべきで、あるいはカークが自身の主演作品以上に映画界に残した貢献であり、意地であるのかもしれません。

(紆余曲折の詳細は、DVDを購入または100円でレンタルして鑑賞すると特典として得られる情報なので、あえて全開に致しません)

作品内容のほうは、ネタバレしないことにはお話できないので未見の方は適宜回避なさってください。



ようございますか?

この手の物語は「異分子がまぎれ込んだことによって日常がかき乱される」というプロットになる以外にあり得ないわけですが、場所が場所だけに、まぎれ込んだほうにも変化が起きるのです。

最初は自分自身が社会に対する義務から逃れたくて、ここへ来たわけだから、もともとは「あそこは無気力な連中が一日を無為に過ごしている場所だ」と思っていたわけですよね。でも、彼らにもいろいろなことができることに気づく。そして深い共感を持ったからこそ、あの結末になるのです。

ノーマライゼーションとは、ステレオタイプの否定です。まず健常者が変わることなのです。

映画は1975年の制作ですが、作中世界は原作(の戯曲化)に合わせた1963年に設定されています。だから、観客にとっては「少し前まで本当にこんなふうだったんだよ」という思い出話の意味を持っています。そして、それはもちろん「二度とこのような悲劇を繰り返してはならない」という教訓の意図を持っています。

うかつに見ちゃうと「うわ~、『カッコーの巣』って、こういうところなんだ。やばい、やばいw」と面白がっちゃう可能性もあるわけですが、もちろんそういう差別意識の再生産を助長したい映画ではないのです。

映像作品というのは「だから、なんなのか」という結論を言語で明示することがないので、観客のほうで自分なりの結論を出す必要があって、それにはやっぱり正解(=監督の意図に近い)と不正解(=監督の意図からは逸れている)があるのです。

「察する」とか「空気読む」とかいうのは、日本人だけの得意技のように思われがちですが、案外そうでもないのです。

いっぽう、女性の立場からすると「これだから男は困る!」と言える要素が満載ですよね。

だからこそ、まさにそのような女性目線の抑圧に対する抵抗の物語でもあるわけで、これもまた、1970年代の女権拡張路線に対する男のプライド回復運動映画の一つでもあるのです。

今となっては、どの点についても「あの頃より良くなった」と言うべきか、あんまり変わってないよと言うべきか。変わってないと感じられたら、じゃあどうしたらいいのか、その答えを現代人なりに出さなければなりません。だから古くて新しい映画。


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