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BLの本質は、女性中心主義に対する皮肉に対する皮肉です。

BLというのは、女流の小説家・漫画家が、古代の神話を含む男性文学を鑑賞した結果、自分の異性指向を表現できる題材を見つけたことによって成立した創作技法です。

前近代には、年長の男性が若年の男性を(性的な意味で)利用することがあって、そのことをひじょうに美化した形で書き残しました。若いほうが「偉大な皇帝や高僧や有名な武将のお目に留まった・お情けを頂戴したといって喜び、香を焚き、香油を塗って身心を整え、忠義を尽くした」というように。

現代の価値観に照らせば、年寄りが若い人の尊厳を搾取し、虐待したのに、搾取された側に責任転嫁したのです。それが旧制の高校であれば、上級生のほうも未成年者ですから、より悲惨なパワハラの一種です。それを「義兄弟」とかいって、カッコいいように思い込んでいたのです。

そういう上級生たちは、卒業すると何事もなかったかのように見合い結婚して子孫を得ました。古代の皇帝や中世の武将たちも妻帯者でした。彼らは本来、シス・ストレート男性だったのです。

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そういう事例(創作例)を集めた稲垣足穂のエッセイ集『少年愛の美学』が、1968年に新潮社から刊行され、三島由紀夫の推挙あって、1969年に日本文学大賞を受賞しました。その基調は「本当に美しいのは女ではなく、第二次性徴発現前の男だ。女のほうが少年の美をうらやましがって真似したんだ」でした。

それは当時の日本において、男尊女卑が根強く、男性が途方もないナルシストだったから…じゃないです。すでに敗戦の結果である戦後民主主義の基調である女性解放路線が決定的だったからこそ、男たちが過去に逃避したのです。翌年、三島が市ケ谷台に突入しました。

その直後から、若き女流によって、女よりも美しい第二次性徴発現前の男を主人公にした漫画が矢継ぎ早に発表されたのです。彼女たちが稲垣足穂や、足穂も言及した森鴎外の自伝的小説を知っていたことは、彼女たちの作品中に示されています。

そこへ海外から同趣向の映画が輸入されました。1971年公開、ルキノ・ヴィスコンティ監督『ベニスに死す』。その主人公である髭のおっさんは、妻帯者であり、娘を愛する父でした。

妻帯者であり、娘を愛する父でさえも、女よりも美しい若い男性を見ると恋してしまう。そういう価値観がキリスト教文化圏からもたらされたのです。日本の女流の勢いは、もう止まりませんでした。

映画『ベニスに死す』は、作品本来のテーマからすると、老境に達した芸術家が古代ギリシャの若者賛美を彷彿させる存在によってインスピレーションを取り戻し、畢生の傑作を仕上げる。すなわち女性なるものではなく少年なるもの吾を導くというわけで、足穂と同じ男性ナルシシズム表現の一種でした。が、日本の女流の勢いは、もう止まりませんでした。

平行して、男装の女性軍人を主人公にした漫画が大ヒットしました。

それらは、一見すると相反する現象ですが、じつは、女権拡張に対する男性ナルシシズム復権の試みに対する女流からの回答である点で同質だったのです。意外なようですが、二十四年組的美少年漫画と『ベルサイユのばら』は、女性に対する皮肉に対する皮肉だったのです。

読者の多くは、実際に物語の筋を追っている間は、そういう背景事情を意識しませんから、あらためて批評されると「そうかな~? そこまで考えて読んでないけどな~?」と違和感を感じるものなのです。自分の読みが浅いといってディスられたような気がして、むきになって反論したくなるのです。

けれども、学者だって読んでいる間は「次はどうなるのかな」と物語の展開そのものを楽しんでいるのです。が、違う視点から見ると、どんな作品も、その当時の社会性を持っているのです。

漫画のファンとしての視点と、学者としての視点。どっちも尊重していいのです。ファンと学者のどっちが正しいかといって喧嘩するところではないのです。それが多様性の時代です。



(アイキャッチ画像: Myrabella / Wikimedia Commons

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