【手塚『MW』の結城は女性のほうが論理的。】


手塚治虫『MW』は、竹宮恵子『風と木の詩』の連載開始後、数ヶ月のうちに連載を開始しています。

ディズニーを茶化した手塚先生は、女性による新しい表現分野の隆盛にも対抗意識を燃やしたのです。たぶん。

真のテーマは「近ごろ流行りの女性的な男性と、それをもてはやす女性への忌避感」と考えると、分かりやすいです。

物語は、異性愛であろうが同性愛であろうが、もともと恋人関係にあった二人が国家犯罪に巻き込まれたのですから、協力して復讐する理屈は立ちます。しかも片方が良心の呵責に悩み、でありながら肉欲に負けて相方を説得しきれないという境地も、冷静な読者には「性を超えて」共感されます。

ただし「愛する彼が俺の説得を聞いてくれない」という苦悩、または「愛する彼が俺の説得に応じてくれた」という喜びは、いずれもゲイの心理描写です。「だめだ」と言いながら情交をくりかえすのは、要するに恋人同士がいちゃいちゃしてるだけです。

やっぱり多くのストレート読者がポカーーンとさせられるでしょう。「手塚はゲイだったのか? こういう話は『薔薇族』で連載すればいいだろ?」となるでしょう。

ここで作者が「俺自身はストレートだが、平等が望ましいと思う。これは性を超えた人間愛の物語である」と言いきることができれば、創作者としての理屈が立ちます。

ただし、この場合は、望ましい結末が「平等な愛は勝つ」というものです。でも実際はそうじゃありませんでした。

もともと、あの手の話は「秘密兵器が発動されて人類全滅、めでたしめでたし」というわけにいかないので、「いかに防ぐか」が眼目になります。

同性愛を禁忌の侵犯ととらえるなら、すでに禁断の肉欲を味わった神父は、じつは防ぎ方に関して、悩む必要ありません。どっちみち地獄行きですから、さっさと秘密兵器をかついで真っ逆さまに落ちても同じことです。

人類は救われたが、愛は成就されない。これは「同性愛と自殺はキリスト教では禁じられています」というプロパガンダなのか?

それにしちゃ女性記者キャラクターを通じて「同性愛には問題ありません」って言わせてるよな? 

じゃあ、賀来は死ぬことが普通に怖かっただけで、本当は結城を連れて逃げ、末永くラブラブな生活ができれば良かったのか? それにしちゃ交際そのものに悩んでるよな? 

……変な話です。

ここで、物語終盤に男性の去勢が描かれたことを思うと「女も強くなったもんだ」という感慨が見えてくるようです。確か、あのドーベルマンは雌犬です。

ここで設定を見直し、結城を生来の女性だとすると「愛する夫の言うことを聞かず、変装の技術をいかして血縁者の復讐に走る意志の強い人物」だが、「才能があり過ぎて、愛する夫を失った哀れな女性」という結末になります。

女権拡張時代への皮肉というテーマが見えたことになります。逆に、男性は論理的かつ情愛に溢れた気高い存在です。

「神も許した結婚の相手を救うため、神に逆らうことは神の御心にかなうのか」

彼女に罪を犯させないため、自分は自決すべきか。愛する人を天国へ送るために、自分は地獄へ落ちるべきか。論理的であるからこそ逆説に悩むのです。本当は、結城が女性だったほうが、テーマの通りは良かったのです。

同性愛男子として描けば、「愛する彼を天国へ送るため」となりますから、同性愛支援キャンペーンとなります。それを言えないなら、このテーマは取り扱うべきでないのが本当です。


『風と木の詩』のジルベールは、性の玩具として育てられた彼なりに楽しく暮らしています。ほかの子のように真面目に勉強しなくても良いことになっています。

女性が性的な存在として期待され、そのように育てられながらも、期待に応えて奔放に振舞うと、淫婦として差別される。そのような社会風潮への、女性からの皮肉であり、ジルベールの中身は女性であるという解釈を取れば、「結城を本来は哀れな女性だけれども男性に設定する」という思いつきにも無理はありません。

が、テーマが違うのです。『風と木』は、セルジュが芸術家として成長する物語です。根本のところで前向きであり、同性愛支援キャンペーンの意味も含まれているのです。

セルジュは在学中に、ジルベールが口ずさむ即興メロディーをピアノ曲に仕立てました。彼は一生かけて、その主題を展開させ続けるでしょう。大人に汚された堕天使は、彼の手で詩神として昇華します。ジルベールの犠牲は、セルジュ自身の飛翔のために必要でした。

作者自身が「いやなこともあったが、描くことで昇華してきた」と言った通り、社会は必ずしも美しくなく、犠牲も出るが、芸術家はその経験を糧に成長する。

これは作者の心の声であり、そのように作品中に作者自身が表現されているとき、人は「文学だ」と申します。


が、手塚のほうは「同性愛は復讐心に勝つ」と描くこともできず、「ゲイも強くなったもんだ」と皮肉を言うわけにもいかない。賀来の犠牲を見ながら誰も反省せぬまま、無駄に壮大なメロドラマが終わりました。

うかつに女性への対抗意識に駆られて、流行の要素を取り入れたのが運の尽きだったのですが、そういう弱さがあったというところが、また手塚らしいところかもしれません。



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