【百合族、薔薇族、茉莉派、ポー・コンプレックス、竹宮派、やおい派。】


百合族というのは、ストレート(異性愛者)の編集者が女子同性愛を「女性のナルシシズムによるもの」と勘違いした挙句に、ナルシシズムの象徴である水仙と白百合を混同して命名したもので、生来のレズビアンの象徴とするには不適切なはずなんですけれども、イメージが美しいので当事者が好んで名乗ることもあるようです。

男性創作者による二次的創作物の一種が「百合」と呼ばれることもあり、これは「異性愛者による捏造としての女子同性愛表現」なので、適切なようにも思われます。

薔薇族も同様な勘違いによる命名で、現代のゲイは「俺たち薔薇族だぜ」っていうことはなくなったようです。

海外では rose はゲイの象徴ではなく、ゲイ団体が薔薇の造花を胸に飾るなんてこともありません。「日本のゲイに限って bara を自称する」というトリビアが広まっており、日本の当事者によって撤回運動が地味に展開されているようです。


【薔薇趣味。】

むしろ「雑誌の表紙に掲げられた内藤ルネ描くところの美少年に憧れ、あるいはピーター主演映画に驚異の目を見はり、男色全般を美少年愛好癖とイコールだと勘違いし、それを話題にしたがる女性」こそ、薔薇趣味と呼ばれるにふさわしいような気もします。

男色を美青年愛好癖として描いたのは三島由紀夫の『禁色』なので、「また三島先生の『禁色』のような作品を読みたいわ。他に無いなら自分で書いちゃおうかしら」ってのは「禁色派」かもしれません。

実現したのが森茉莉なので、やっぱ「茉莉派」が正解かもしれません。

薔薇とジャスミンならイメージが美しくて結構なことです。


【中年女性の孤独。】

森茉莉『恋人たちの森』は、田村俊子賞を受賞した通りで、本当のテーマは「中年女性の孤独」です。

美男同士が寄り添い合うとき、置いてけぼりにされた女性が思いつめ、凶行に及ぶもので、「グラビア写真などで美男同士を見かけた女性が、羨望のあまり彼ら同士の身の上に悲劇を想定する」という心情をよく表しているんじゃないかと思います。

思うに「美男同士に悲劇を望む気持ち」は、現実のゲイを差別してやりたい気持ちとは違うのです。ミステリ派は現実に殺人事件を起こすわけではありません。ロリ派は実際に虐待を好むと言われちゃ断固反対するはずです。

ただし、もっとも茉莉らしさを表しているのは、父親との交流を描いた『甘い蜜の部屋』なので、茉莉派といえばファザコンのようでもあります。

後の時代に、中年女性の悲哀表現をそぎ落とし、男性同士のメロドラマが量産されたことを思うと、その原型を示しているのは『枯葉の寝床』のほうなので、「枯葉派」が正解かもしれませんが、やや印象が違うような気もします。


【ポー・コンプレックス。】

「原作では性愛関係が明示されていないのに、血の契りとか、義兄弟とかいうモチーフから、読んだ女性が勝手にロマンだかエロスだかの情緒を覚える」現象というと、その嚆矢と見なされる萩尾望都『ポーの一族』から「ポー・コンプレックス」が導き出されて然るべきじゃないかと思います。

歴史上の有名人に憧れ、誰かれ構わず自分の創作の文脈に取り込んでしまったのは、青池保子『イブの息子たち』ですが、強く影響された作品としてその名を挙げる人は少ないようです。

掲載誌が秋田書店『プリンセス』という、知名度的に微妙なものであることが影響しているのかもしれません。歴史の予備知識が必要なので、もともと大ヒットするタイプの作品ではなかったのかもしれません。

そして今ごろになって一般新聞でも紹介される金字塔が竹宮恵子『風と木の詩』ですが、なぜここから「竹宮派」とか「ジルベール・コンプレックス」とかいう単語が生まれてこなかったかと思います。


【ジュネ派。】

竹宮が少女コミック誌上で連載を続けるかたわら、表紙絵を提供したのが、少女漫画誌とは別に美少年愛好癖だけを取り上げた専門誌『JUNE』でしたから、この趣味に呼応した人々というのは、まずは「ジュネ読者、ジュネファン」ということになったのでしょう。

雑誌のタイトルを取って、その投稿者・追随者が呼ばれることが普通です。白樺派とか。

『JUNE』が創刊されるまでの数年間には「わたし『ポーの一族』と『風と木の詩』が特に好き」と言う人をなんと呼んだのか。本人はなんと自称したのか。たぶん耽美で済んでいたのでしょう。

作品を指して少年愛とはいっても、自分を指して少年愛者ということはあまりなかったので、なんとも自称しないものだったのかもしれません。

正確にいうと「男性による少年愛を横から観察する趣味の者」なので、長たらしいというか、呼称しにくいのではあります。

べつに女性に限るとは決められていません。ストレート男性の中にも「美少年なら分かる」という人が昔からいただろうと思います。

いっそ誌名が『ジルベール』だったら「ジルベール趣味」で通じたので、話が分かりやすかったかもしれません。


【絵の少年への愛。】

創作物の登場人物に過ぎない異性への特別な愛着は、「少年探偵団コンプレックス」(略してショタコン)という言葉を真に受ければ、戦前から意識されていたのだろうと思われます。

少年倶楽部などの雑誌に、高畠華宵などが描いた美少年が掲載されていたのですから、とくに当時は実際の交際がしにくかった現実の男性よりも、兄弟が所有する雑誌の中に発見した「絵の少年」に初恋を抱くということが、ひそかに生じていただろうと思います。

漫画という技法のなかった時代には、その少年の次なる活躍を、「絵を思い浮かべながら小説に書く」ということが行われたでしょう。

物語の主題は、もっとも単純には少年探偵に次の事件を与えてやれば良いので、これを得意とした人は、児童文学やミステリーの分野へ向かったかもしれません。

現在のBL雑誌というと漫画が主流なのに、同人について解説するというと、その文章力に注目されるものです。二次創作という作業が、戦前から連綿として小説の形で受け継がれてきたことを示すのではないかと思います。

小説は途絶えることなく続き、並行して漫画が成長しました。

華宵も海外を参考にしましたが、フランスの少女向け雑誌と内藤ルネ作品・日本の少女漫画の類似性も明らかで、華宵以上に海外への憧れを掻き立てるルネのタッチで少女ではなく少年を描いたものが、ついに少女漫画の主人公となったとき……。


【海外への羨望。】

すでに少女は軍人やテニスプレイヤーとして大活躍していたのに、少年には格闘技の分野で次々と敵を打ち負かしていくサクセス・ストーリーではなく、心身の成長と鍛錬を封じられ、あるいは大人の吸血鬼の犠牲となり、あるいは大人の性犯罪者の犠牲となる役目が与えられたのでした。

ここに女性の支配欲、羨望、復讐心、その背景にある現実的な無力感などを見ることは、不可能ではありません。ただし、そういうものは創作物一般の動機であって、美少年趣味の女性だけが特殊なのではないはずです。

日本人の少年ではなく、明治以来日本人が憧れてきた西欧白人貴族文化の担い手となるべき良家の子弟が成長を封じられ、玩具とされるというモチーフに、性別にかかわらず日本人としての復讐心を見てもいいでしょう。

じつは『風と木』のすぐ横には、『宇宙戦艦ヤマト』がありました。欧米各国の政府が滅亡した後で、日本人の若者が地球を救う使命を帯びて戦う男のロマンを燃やします。茶髪でしたが。

男たちが金髪の美女をナビゲーターとして、目指す先も金髪美女の待つ星としていたとき、女たちは金髪の美男をなぐさみ者にしていたわけで、女は怖いという話なのかもしれません。

なお、この時点で竹宮は20代後半の成人女性であり、『ファラオの墓』などの連載を成功させた後で、充分な成功体験と自活の手段を得ています。


【slash。】

じつは「アニメを見て、本来その関係にない人物たちを仮に恋人同士として描く」という創作アイディア自体は、『風と木』にはるかに先行して行われていた節があります。

海外では、登場人物を「人物A/人物B」と列記するところから、間にある記号の名称を転用して「slash」と申します。これが一番冷静に状況を表しているようにも思います。

slashは、1960年代にテレビドラマから派生しました。これは着想の方法からいって、映画スチルから受賞作を構想した茉莉と同じですが、じつは必ずしも悲劇の文脈に落としていく必要はありません。

茉莉は、離婚後の独り暮らしでした。もっと若い女性が恋愛に夢を持っている状態では、寂しい女性の凶行(の象徴となる男性による凶行)よりも、ハッピーエンド型のロマンスが好まれることは充分に考えられます。

女性が「複数の美男を見かけると、恋愛ドラマを連想する」という現象は、複数の美男が打ちそろって彼女の眼前に登場するという(現実世界では起きにくい)奇跡が映画・テレビによって与えられると同時に始まったもののようでもあります。


【コミケ同人、やおい同人。】

コミック・マーケットは、『コミックマーケット』という題名の雑誌が創刊されたと考えることもできますから、そこへ(本来は募集されていなかった)アニパロ作品を投稿して、いつの間にか雑誌の顔のようになってしまった流派を、男女を問わず「コミケ同人」と呼ぶのは正解なのかもしれません。

(昔は「OUT同人」と一部かぶっていたでしょう。)

「アニパロはエロス表現に限ること」なんて、誰も決めていません。サッカーアニメを基に、ドリームチームを結成して、海外クラブユースと戦う話を描いたって良いです。

と考えると、アニパロの中でも特殊な要素を持つので「原作ファンの方も是非ご覧下さい」とは言えない種類の作品だけを、隠語で呼んで区別する必要があったことになります。

ネットふうに言うと「裏サイト」でしょうか。慣れない人は、かえって興味を引かれて「裏に何があるの?」と真顔で訊くでしょう。「山なし落ちなし」というのも、むしろ逆に「何なら有るっていうの?」と質問したくなるような言い回しです。

これは、つまり「言えないことが隠してある」ことを勘づいて、黙って頷いてくれるような人に対してだけ耳打ちされる隠語であり、本来は外の世界へ喧伝されるものではなかったのです。


【アニたん。】

「アニメによる耽美」を今ふうに縮めれば「アニたん」ですが、ついにそう自称することも、呼ばれることもなく、プロによるオリジナル作品を指す「耽美」とは違う名前を欲した結果が「やおい」でした。

「山も落ちもないけど、いいものがあるのよ」という言い方には、二次創作としての耽美の存在が前提されています。「いいものって、あれよ」と言えば「ああ、あれね」って分かるわけです。

「女性が読むべきものでありながら、大きな声では言えないものが存在する」という知識が共有されています。

茉莉作品、または竹宮作品のことなら「竹宮先生の作品を読んだことある?」で話が通じるわけですから、それ以外のものです。

当たり前ですが、1950年代があって、1960年代があり、1970年代があり、1980年代があるわけです。

「ジルベールが好きなら and/or 『JUNE』の読者なら、こっちも読んでみる?」というわけで、『少女コミック』や『JUNE』から客を奪っていった過程があったと思われます。

これは、同人誌即売会の軒先を借りて母屋を取った・小説投稿サイトへ一斉投稿してランキングを占領するなどとの行動とも一脈通じるようです。

今に至るまで「私たちが勝った」かのように気を高ぶらせている人がいる理由でもあるでしょう。アニメ人気に乗じただけなのですが。


【単純化。】

コミックマーケットは、本来オリジナル漫画を募集したところだったはずで、最初から「アニメの著作権を無視しましょう!」と呼びかけたわけはありません。

漫画は小説よりも「新しい」と感じられたはずで、アニメはもっと新しいと感じられたでしょう。

ガリ版刷りの時代に売れ筋というほど利益があったかどうかは怪しいものです。当初は、金目でもエロスでもなく、とにかくアニメを話題にすること自体が(ごく一部で)最先端と感じられたのでしょう。

女性の悲哀を、詩的な比喩を多用した特徴的な文体によって表現することの一種である、いわゆる耽美(女性による衆道表現)そのものは、上述のとおり、根が深いです。

アニパロを、よりによってその形式で提出するというのは、当然ながら「耽美文学もアニメも両方鑑賞する」という、ごく珍しい人によるジョークのようなものだったでしょう。

それが低年齢者の手に渡ったとき、起きたことは「そこから耽美文学の源流へ向かって向学心をさかのぼらせて行く」という文学修行ではなく、「これってホモじゃん!」という短絡的な感想を基にした、「耽美=男色の性描写」という単純化でした。

いつしか「エロティックなアニパロを描くことが、コミケの参加条件である」かのように短絡する人が増え、先行作品を盛んに模倣し、持ち込んだので、「そればかり」という観察結果を生じたものです。


【分析されるべきだったもの。】

野菜市場のまんなかで「何故ここの女性は野菜ばかり売るのか! どんなトラウマを抱えているのか!」と叫んでも無意味です。

野菜を持ち込むべき場所だと思われているから、野菜を持ち込んだだけです。

叫ぶなら「なぜ若者は無反省に他人の真似をするのか!」ですが、この答えは簡単で「人間だから」です。人間は「まねぶ」ように出来ているものです。

とくに若い人は、世間がせまいので、他の可能性にあまり思い至らず、眼前に与えられた通りに模倣し、提出するものです。

師匠・先輩のいうことを聞く人がいないと、流派が伝承されませんから、じつはコピーのコピーのコピーであること自体が悪いわけではありません。

真に分析されるべきだったのは「なぜ誰も彼らに著作権と人権を尊重することを教えないのか」「なぜ作文と写生の技能が伝承されていないのか」「この国の教育はどうなってしまったんだ!?」という、大人社会側の問題だったのかもしれません。




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