【つり橋理論から同性愛は生まれません。】


ストレートが「ホモになる」ってことは、ありません。

「危険をともにした男性同士は下半身を交えたくなる」と考える人は、BLの読みすぎです。

自分自身が「災害避難の際に、隣のおばさんと何かしたくなるか」と考えてみると良いです。

「でも相手が美青年だったらどうなの?」というのも、同様に自分が質問された場合を想定してみると良いです。

男性が女性に「モデルの○○ちゃんみたいな可愛い女の子が相手だったら、きみも変な気分になる?」と訊いたら? 「ええ、なるわ。濡れちゃうわ」と言わせようとしているわけで、セクハラです。

もし「私はこの問題について女性の口から解説してほしいのではなく、自分好みの男性の口から『やめてくれよ』って言わせたいのよ」ということであれば、セクハラです。

逆セクハラという言い方もありますが、男女は平等なのですから、逆もなにもありません。セクハラはセクハラであり、人権侵害です。

飲み会シーズンになりますが、どちら様もお気をつけ遊ばしますように。


【ゲイを弱い男だと思うのは偏見です。】

ゲイタウンは、女性へ向かって「俺と今夜(だけ)つきあわない?」という男性がいないことが想定されるので、女性が安心して飲みに行ける街かもしれません。

その際は、どうかお店へボトルを入れてあげて、静かに大人のお酒をたしなんで下さい。

ゲイタウンの外でストレート男性からセクハラ発言を受けたから、お返しに女性がゲイへセクハラ発言して良いわけではありません。

「ストレート男性を怒らせると怖いが、ゲイなら怒らせても怖くない。ストレート男性には殴られるのが怖くて言えないことを、ゲイになら言える」というのであれば、彼らを「女に負けてホモになった弱い男だ」と見なしている証拠になるかと思います。


【僧院における衆道はパワハラ。】

水上勉『男色』に描かれたように、僧院などにおける衆道は、立場の差を利用したパワハラの一種です。

繰り返しますが、女性が男性に「あなた、性的なパワハラを受けたことある?」と訊けば、セクハラです。

中世におけるパワハラを「稚児のほうから喜び迎えてくれた」というふうに、最大限に美化して描いたのが『稚児草紙』。

「腹やよし」と評された若衆側の「そんな恥ずかしいこと、店の外で言ってほしくない」という気持ちのほうは表現されていないのが『閑吟集』。

あれらは、もしかしたら本当は相手のいない男性の夢の爆発だったのかもしれません。


【男性による美化の繰り返し。】

団鬼六『花と蛇』のような、女性が性的被害に遭う物語は、男性目線で美化されているから許しがたいという説は、ずいぶん前に指摘されました。この説は「だから、女はBLに向かうんだ」と続いていくこともあります。

が、衆道に関する物語は、同様に男性目線で美化されたものです。本来、女性が「相手が男の子なら、どんな行為も許すわ」と言える筋合いはありません。

女性作家が稚児さん趣味の男性を主人公に描くのは、女性が男性の後ろにくっついて歩く状態の一種に過ぎません。

まだ海のものとも山のものともつかない若年者へ、もともとは女性とおつきあいしていた男性が、ふと何かに背中を押されたように向かっていくという式の女流創作物は、何なのか。

じつはストレート男性作家が「俺もその気になっちゃった」と書いたことは殆どありません。水上などの純文学者が書いたのは「ゲイボーイの気持ちは分からないが、夜の蝶として生きる他ない彼の寂しさは、売れない作家である自分の寂しさと似ている」というような境地です。

男としては美しすぎる彼を愛したから幸せになれたのではなく、愛せないから寂しいままだという気持ちです。

ここで、つり橋理論の曲解に戻ります。美しすぎる男性を愛してしまったという物語は、それを構想する女性自身の「もし、そういうことがあったら面白いじゃない?」という気持ちの表現でしかありません。「背中を押した」のは女性ですが、それは創作上のアイディアとしてのみ許されることです。

ミステリ作家は「現実に猟奇事件が起きたら面白いよな。みんなもやってみろ」と言っているわけではありません。ロリ派は実際に虐待を好むといわれたら、断固抗議するでしょう。


【創作物とは。】

能楽の脚本は、源氏物語・平家物語に基づく二次創作で、「昔の人が幽霊になって出てきて、当時の話をしてくれたら面白そう」という思いつきによっています。

これに向かって「幽霊なんか出るわけねーじゃん」とは言わない約束になっています。

創作物や、演劇というのは、ばっさり言ってしまえば嘘八百です。たとえ実際の社会問題を取り上げ、観客に行動を促す内容の演劇だったとしても、観客がその場で「俺がかわいそうな娘さんを助けてやる」と立ち上がり、ステージへ上がってきてしまうと困ります。どこかに「おはなしですから、本気にならないでください」という言い訳が前提されています。

つまり、あえて言えば、すべてのフィクションは、嘘と知っていて「真顔をする技術」であり、努力です。

架空の人物の心理を書き上げ、演じ通したときには鑑賞者に感動を呼ぶことを知っている人が、心を籠めて書いたり、演じたりするものです。

逆に、実際に昔の人に会いたいと切望する人に「お能だったら幽霊が出てきてくれるんだけど」と言ってみても、「だから何なの?」という話でしかありません。それは「自分は古典に詳しい」という自慢でしかありません。

同様に、現実の男性へ向かって、「BLだったら寄宿舎で相部屋になった若者同士は結ばれるんだけど」と言ってみても、それは「自分はBLに詳しい」という自慢でしかありません。



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