【女流が憧れた耽美的生活とは。】


潤一郎、久作、由紀夫、龍彦、足穂、鬼六。

男性の耽美派が、企業間闘争や戦争叙事詩を書くことは少ないものです。冷静に読むと「部屋の中でエッチなことばかりしている」という要素は、確かにあります。

若きシャンソン歌手・丸山明宏の周囲に集まったのは純文学者でした。潤一郎は琴、久作は小鼓を題材に取り上げたと思います。音楽は天文学に通じると紹介したのは龍彦でした。天文を愛したのは足穂でした。

産業革命の時代は、膨張主義と富国強兵、「生めよ増やせよ」の時代でもありました。人を増やす必要があったのは、兵隊が必要だったからです。

それに反して、星を眺め、遠い過去に思いを馳せ、可愛い男女を従えつつ、PTA業には忙殺されず、音楽を聴いて暮らす。戦争色に倦んだ男たちにとって、それは望ましく、慕わしい生活だったのかもしれません。

美に耽る生活は、生活苦にある人には許されません。国家的責任が重く、日夜忙しく、どこへ行っても新聞記者につきまとわれるというような人にも、じつはあんまり許されません。

それを楽しむことができるのは、貴族(華族)の血を引きつつ、戦後政策による壊滅をまぬがれた「中流の上」くらいの人。悪の大企業として庶民から攻撃されるほどではないが、嫁さんの実家の援助で苦労知らず。やっぱりそんな感じになります。

それは、男一匹、社会の荒波に立ち向かって意気に感ずというふうではありません。だから退廃であり、耽美です。

してみると、女流が憧れたのも、そのような男性像です。

「漫画しか読んだことがないままに、二次的創作活動に入った」と主張する人があるなら、尚のこと、漫画を当たる必要があります。

二十四年組、まつざきあけみ、岸裕子などが1970年代に描いた美少年漫画には、その相方として二十代後半から三十代前半と思われる青年たちが登場しました。

それを描いた女流漫画家自身が、まさにそのような年齢でした。

セルジュは、やがて職業ピアニストになるべき男です。おそらく彼は、若き日にジルベールから与えられた旋律を一生かけて展開させ続けるでしょう。それがどうやら歳を取ってから青春時代を回想したという体裁を取っているのが竹宮作品『風と木の詩』です。


【男の先輩、女の先輩。】

ここでワトソン医師とホームズを例に出せば、ワトソンは「まんまドイル」です。彼が驚異の目を見はって見守る探偵は、恩師ベル博士です。

ドイルはベルと一緒に暮らしてみたかったんだろう、となります。べつに同性愛を邪推しなくても、博学な先輩と一緒に暮らして様々な話を聞いてみたいという気持ちは、多くの人の中にあるでしょう。

漱石の場合は、三四郎くんも坊ちゃんも「まんま金之助」でしょう。情報量の少なかった時代には、実体験以外に詳述できるわけもありません。

この、主人公=ほぼ作家という男性の手法を取り入れるならば、本来の女流耽美は「二十六歳の女性が未成年男子を囲いものにして暮らす生活」になります。

もし、それを描く人がいたら? 

少女誌での連載は不適切かもしれません。でも読みきり単行本として出せないことはありません。潤一郎や久作をちょっとひねった作品として、まさに「女流の耽美派」の名で宣伝することもできたと思います。

描きたければ描いて、発表が許されなかったら「表現の自由」とダダをこねてもいいのです。ほかの女性に「およしなさいよ」と止める権利があるわけでもありません。

もし「ある」と思われていたならば、女流漫画家が遠慮したのは男性社会ではなく、女性社会ということになります。男の先輩なら味方になってくれる人もいるが、女の先輩のほうが怖い。これは現在にも通じる現象かもしれません。

そもそも女性キャラクターが大活躍する漫画は、描かれてはならなかったでしょうか?

もちろん、そんなことはありません。最初が『リボンの騎士』ですし、1970年代に入れば男装の麗人もパワーテニスプレイヤーも輩出されました。そばかすをチャームポイントに明るく生きる孤児の少女の連載が始まったのは1975年です。

とすると、女流耽美漫画の眼目は、「社会の荒波に立ち向かい、意気に感ずる女一匹」を再び描くことではなく、「膨張主義的総力戦への忌避感と生活の余裕をもって美少年を囲いものにする退廃女性」でもなく、「そのような男性」を描くことです。

男性に挑戦する蛮勇か、女性への遠慮か。解釈は多様ですが、ともかく表面にあらわれた要素は、いわゆる「攻め」の側の彼のカッコ良さを描くことです。だから彼らは未成年者略取の咎で逮捕されたり、社会的な屈辱を受けたりすることがありません。

そのような男性が少女を囲いものにする漫画も書かれて良かったはずですが、これは男性によってさんざん表現された後ですし、女性漫画家の手からも(詳細な性描写はないまでも)少女キャラクターが経験する悲劇の一要素として描かれていたでしょう。

とすると、「女性が強く感情移入した退廃男性による少年趣味を描いた漫画」というのは、すでに存在するものの間に針を通すような、アイディアと勇気の産物だったのでしょう。


【非BL派。】

とすると、ボーイズラブが面白くない人は、美少年趣味の男性に感情移入できない人ということになります。あるいは、美少年趣味の男性に感情移入する女性作家に感情移入できない人ということになります。

二次創作BLに反対する女性というのは、原作ファンの男性におもねっているわけではなく、「私の好きな○○くんを貴女の一存で攻めとか受けとか決めないで」という、二次創作ファン女性への反感のほうが強いこともあります。

その反感が「ああいう女は女性キャラクターに感情移入できないんだろう。かわいそうに、女として失格だ」と言わせるわけですが、女性キャラクターに感情移入できない女性がもれなく男性キャラクターに感情移入できるという保障はありません。

「あんな女子アナは嫌い」という女性が「男子選手が男子アナと結婚するなら認める」というとは限りません。女子キャラも嫌いだがBLも嫌いという女性読者も、けっこういるものです。

逆に、女性キャラクターに感情移入できる女性が、男性キャラクターにも感情移入できる可能性は、じゅうぶんにあります。そもそも少女漫画を読んできた経歴がなければ、少年キャラクターを(男性が眉をひそめるほど)少女的に描くという動機も、技量も、磨かれていないはずです。

んなわけで、ベルばら的な華麗な表現と、ボーイズラブの極彩色表現の地続き感が納得されるわけです。


【強い女性もいろいろ。】

日本女性の「社会進出」は、かつてに比べれば大きく伸張しましたが、どうやら女性作家の筆からSM女王様の話はあんまり生み出されていないように思われます。少なくとも表立って称賛されません。BLだって表立って称賛されませんから、レディースSMもあるところにはあるのでしょうけれども。

じゃあ、今なお女性は表面的に我慢しているのか。じつは「かろうじて許される範囲」として、ちょうど二十六歳くらいの女性が、同世代だが少年的な容姿をもつ男性をお相手とするドラマが、日本製・韓国製を問わず、流行しているはずです。んで、それはべつに女性が男性をわざと肉体的に傷つけ、屈辱を与えるという話ではないはずです。

男性(の一部)が切望するような女王様を自ら演じたがる女性は、結局のところ、あんまりいないらしい。じゃ俺が描く、となります。現実味のない美少年と、格闘技に優れた女性指揮官といったキャラクターは、ちょうど対称の関係にあるんじゃないかなと思います。

この手の結果論がなんの役に立つかというと「ああ、そういうことか。なんとなく分かった気がする」と思って頂いて、少し落ち着いてもらうためです。



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