【活字を貪った1950年代における耽美派と他分野の混淆の可能性。】


「竹宮恵子先生の『風と木の詩』は本当にすばらしい。私はぜったい漫画家になりたくない。小説を書こう」

話がおかしいです。

「漫画市場」開催(1975年)、『風と木の詩』連載開始(1976年)に先行して、パロディとしての耽美小説というものが行われていたと考えれば、話は簡単です。

コミックマーケットの初開催に際して、主宰者が号令したのは全国の「漫画」サークルだったと伝えられます。「コミック市場」なのだから、そりゃそうでしょう。

そこへ耽美小説が出品されたなら、漫画サークルが文芸サークルを誘ったか、文芸サークルが人脈を頼りに勝手に参加したかでしょう。なお、当時のサークルとは、本当に複数人による部活動的なものでした。両方へ出入りしていた人もあったかもしれません。


【活字に飢えていた1950年代。】

三島由紀夫が精力的に活動していた1950年代は、SF御三家と手塚治虫が活動を開始した時期でもありました。

戦争中に若い人が困ったことは「読むものがなかった」ことだといいます。従軍した人が活字に飢えるあまり、胃薬の説明書を大事に携帯し、繰り返し読んだという話もあります。

平和と出版の自由が戻って間もない1950年代、「思想書も耽美派もSFも少年漫画もぜんぶ読んだ。妹から奪うようにして少女漫画も読んだ!」という人は、あんがい多かったのではないでしょうか。

だからこそ「手塚のこれは何だ。くだらない」って言う人もいたのです。

でも、逆に「リボンの騎士なんか下らねェよ」って言う人はあんまりいません。男性が少女漫画の価値さえも認める下地が、敗戦後の物不足の日本には、あったのだと思います。

そして、その旺盛な読書欲と「俺も何か書いてみたい」という気持ちから、さまざまな作品の印象が混淆した新作が生まれることは容易です。

漫画は特殊な技法です。「小説のトキワ荘」という話はあんまり聞きません。漫画は「実際に描いているところを見て覚える」という徒弟修業が必要だったのでしょう。

それに比べて、活字を読んだ人が「俺も文章を」と思うことは自然です。


【耽美化。】

女性だって、日本では戦前から多くの人が女学校へ通っていました。戦後まもなく新制大学へ進んだ人もあります。

火のないところに煙を立てることは、じつは80年代やおいの発明ではありません。

海外の探偵物語を読んだ人の何割かは、日本人の俳優を探偵役に、学校の同級生を伝記作者の役に当てて、顔立ちをイメージしながら新作を書くということをしてみるでしょう。勝手にキャスティングするという点で、後の二次的耽美と手法が同じです。

「後の二次的耽美」がSFアニメから始まったといっても、女性が宇宙戦艦や巨大ロボットを確実に描く例は少ないものです。それは小説の形だったでしょう。メカニックや戦術について詳細に描写されることもなく、戦士たちの「オフ」における恋愛模様だけが描かれたものだったでしょう。

それは、明らかに先行する耽美派の模倣です。

潤一郎だろうが龍彦だろうが由紀夫だろうが、耽美派が企業経営や大戦争叙事詩を描くことは少ないもので、冷静に読むと家の中でエッチなことばかりしているという要素は、確かにあります。だから「男一匹」という感じではなく、退廃であり、耽美なわけです。

それは戦争に倦んだ男たちにとって、けなされたとしても、望ましく、慕わしい生活ぶりだったのかもしれません。そして、それは女性にも理解しやすい事柄だったでしょう。

未来戦争物語の耽美小説化とは、戦士たちの退廃化であり、家庭化であり、女性化であり、籠の鳥化であり、女のロマンなわけです。

それが1970年代に起きたことなら、1960年代にはテレビドラマから、1950年代にはミステリー小説から起きていたとしても全く不思議はありません。

肉筆誌か交換日記のようなもので嗜まれていたものが、ついに即売会という場を得て、出品されただけです。

それがアニメと結びついたことで時宜を得て盛んになっただけで、もし開催されたものが「小説マーケット」というものであり、出品されたのが本格SFを読んだ人にしか分からないというものであったならば、これほどの展開は見なかったでしょう。


【耽美の定型。】

手塚は活字によってSFを消化することにより、未来物語を描くことができたといいます。描画に先立って、プロットを大学ノートに絵コンテではなく文字で書きつけることも、ごく当たり前だったでしょう。

後の時代の女性が、ろくにプロットも立てずに「山も落ちもない」恋愛物語を書くことができたのは、すでに定型が確立していたからです。では定型は、いつ確立したのか。1980年代にとっては1970年代だったとして、1970年代は何を参考にしたのか。1960年代です。1960年代は? 1950年代です。

歴史は断絶しているようで継続しています。何もないところからは何も生まれません。順にさかのぼって行けば、戦前にたどり着きます。戦前は江戸時代へ通じ、近世は中世へ通じ、その前にはシルクロードを介した東西の交流があります。

しつこく申しますが、そこにおける少年趣味は、成人が男役で、少年が女役という形でしか与えられていません。新作の構想は、その定型へ「誰を当てはめるか」という選択の自由でしかありません。

これを本末転倒させて「なぜ組み合わせるのか!」「なぜリバーシブルではないのか!」と疑問に思えば、答えは出ません。

「私は漫画しか読んだことがない」と変な自慢をしてしまう人もいますが、漫画家自身はいろいろ読んできたのです。

いわゆる耽美の手法について、80年代をつついても、たいしたものは出てきません。前代の模倣をお互いの間で繰り返しただけです。言えることがあるとしたら「真似のうまい子供たちだった」ということだけです。

もし、現代のBLが面白くなくなったと言われるなら、読者のほうは長いこと掛けて鑑賞力を上げてきたのに、作家・編集者のほうが1980年代に同人界で確立されたエロティックコメディの形にこだわっており、その模倣を繰り返しているからです。

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