【1944年、東宝『加藤隼戦闘隊』】

冬休み企画その2。

「どうやって撮ったんだ!?」と開いた口が塞がらなくなる場面の連続です。

空中戦は実戦の記録映像なのか……?

敵機には出演交渉したのか……?

爆撃による地上物の連続爆発は、いくらなんでもミニチュアだよな……?

思わずまばたきが減っていたようで、気づいたら目が痛くなってました。ドライアイにはお気をつけください。


冷静に考えると、対空砲や機銃を浴びながら実戦を撮影しても、回収できる保障がないので、再現なのです。

二番目の疑問は、もちろんあり得ません。

三番目の疑問については、よく見ればミニチュアではあるのですが、あまりに出来が良いので違和感がなさ過ぎるのです。連続爆発は心地よいと言えるほどの見事な仕掛けです。あくまで「映画として」です。

陸軍の全面協力ぶり、撮影班・特撮班の徹底ぶりは、ウィキペディアさんに詳しいです。

CGをさらっと見ることに慣れてしまった眼は、ときどきこういう作品で洗うのが良いと思います。昔の人ってすごいです。

しかも奥ゆかしいところは、それだけのことをやっていながら、演出に過剰さがなく、編集も締まりが良いことです。

起承転結というような物語性はなく、部隊のなごやかな日常と、加藤隊長の大人物ぶりを実直に伝えています。

「珈琲ってのは、挽きたてが旨いんだからね」

手回しミルから立ち昇る珈琲の香りにつられて集まる隊員たちの笑顔がいじらしいです。

軍隊を美化して若者を勧誘しているという見方もできますが、隊長は若者たちを死に急がせることはありません。深追いするなと厳しく諭し、熱があれば休めといいます。

戦後の自虐というのは、じつは「悪いのは軍隊だ」という弁解だったと思います。

実際の軍隊には、確かに合理的で明晰な頭脳と、温かい心をもった名指揮官がいたのです。

合理的とは功利主義という意味ではありません。理屈に合わない蛮勇をいましめ、冷静な判断ができることです。

また、映画人というのは、平穏無事でなければ映画を撮ったり編集したりしていられませんから、基本的には反戦・平和主義だったろうと思います。

戦中に発表された作品は、戦意高揚映画とはよく言われますが、映画人たちが本当に表現したかったものは、戦中にあっても失われない人間性の美しさと、平和の尊さだったろうと思います。

作品そのものに戻ると、ときおり流れる後期ロマン派ふうのBGMが、じつに良い感じです。

主演俳優は、自らおどけて若い隊員たちを和ませようとする隊長の、やや間合いの外れた不器用なオヤジっぷりを含めて、実在感に溢れています。

若い隊員たちは、いま見るとすごいメンバーですが、若すぎて誰だか分からないくらいです。こちらは輪をかけて棒読み気味で、その初々しさがまたリアリティを高めます。

正直申し上げて、現代の映画は「怒鳴る」ことをリアリティの強さと勘違いしており、好きではありません。

イギリス映画『暁の出撃』、アメリカ映画『史上最大の作戦』などもそうでしたが、現場って静かなものです。

この作品の実直さ・誠実さを支えるものは、やはり背景がすべて本物だったことです。もはや実機を出す撮影はできません。1944年というと、物不足もかなり深刻化していた頃です。なによりも、撮影の陰で、実際に人命が失われていたのです。

「イメージ」だけを頼りにする現代の監督・俳優がマンガ調になり、遊離感を帯びてしまうのは致し方ないことではあります。

本作は、多くの犠牲の上に立った、困難な時代の証言であり、襟を正して拝見すべきものではありますが、撮影現場を作る・映画を撮ることの幸福感に溢れているようにも思います。

神鷲去って、また帰らず。

ご冥福をお祈りいたします。


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