【表現の自由とは。】

Misha


弱者の権利です。なんでも多数決で決める民主主義における弱者とは、少数派です。自分たちだけでは絶対に多数決に勝てない人たちです。

すでに権力のある人と、彼(女)を支持する多数派は、わざわざ「自由」などと言わなくても、自分たちだけで何でも多数決してしまうことができます。

「今日から一億総玉砕」でも、「今日から少数民族は国外退去」でも、「性的少数派は全員逮捕」でも随意です。

それじゃ困ると思う人が、街頭で「戦争反対!」と演説したり、集会を開いて「政府へ署名を提出しよう」などと決めても、警察に踏み込まれないのです。逮捕されないのです。拷問されたり処刑されたりしないのです。

そういう権利が、本来の「表現の自由」です。

二十世紀前半にはその権利が認められていなかったので、特高の取調室や強制収容所で恐ろしいことが起きました。だから、もうそういうことはやめようという約束ができたのです。

つまり、新憲法が意識しているものは、国家が絶対権力を握っていた旧時代の国家であり、政府です。

政府・与党・軍部などの権力に対して、表現の自由を行使できるのです。

ということは、新憲法下において、多数決で決まってしまった現行法に不満のある人が真情を訴える相手も、政府です。

法律が気に入らなければ、その旨を文書にして、国会議員へ手渡し、条文の変更を検討してもらえばよいのです。

それをせずに、多数派が少数派を、または「多数派の中の少数派」が絶対少数派を、暴力(の行使の可能性)によって直接に脅すのは「表現の自由」ではありません。

また、笑いものにするのも「表現の自由」ではありません。

笑いものにすることは、いじめの内に入らないと思う人もあるかもしれませんが、言葉の暴力です。相手に対する人権侵害です。

政府がこれらを認め、放置するなら、近代国家そのものを否定することになります。

私闘・私刑を禁止し、軍隊と警察という形で暴力を独占するのが近代国家だからです。


【暴力の否定。】

では、少数派は暴力によって自己主張しても良いのでしょうか?

それでは「表現の自由」理念そのものの否定です。

お互いに「肉体と生活を破壊する」という手段に訴えれば、双方の弱者(子供など)に犠牲が出ることがよく分かったので、「言葉で闘う権利をください」というのが表現の自由です。弱者のほうから「武力行使はやめましょう」と言っているのです。

だから少数派の武器は「剣よりもペン」なのです。

それに対して、権力のある人は「生意気だ。黙ってろ」などと言わずに、投石や野次で遮ったりもせず、最後まで話を聞く・文書を読む。

これが、お互いに守るルールです。


【警察が責任を持つのは、国内の治安です。】

国際的な暴力事件に対応するには、他の組織や専門家がいるはずです。

努力が実ることを祈ります。



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Posted byMisha