【同人むかしばなし8 ~耽美の死。】

「耽美が死んだ」というのは、1965年だったろうと思います。

文芸における耽美って、本来は、言葉そのものの魔術的な機能を磨き抜くってことだったはずです。

三島由紀夫が自信をもって、見事な比喩と情景描写に満ちた恋愛小説を書くことを続けていたら、その後の文芸の発展も違ったのかもしれませんが、言葉の耽美主義(によって俗世間受けすること)とは、神経をすり減らす作業なのかもしれません。

時代の寵児のようだった三島が大事件を起こした後には、文芸そのものが疑わしく感じられたことでしょう。1972年に入ると、社会は川端の訃報を聞くわけです。


【SF漫画と耽美派。】

ビッグネームを失い、純文学がすたれて、入れ違いに漫画の時代が来たかのように思いがちですが……

手塚が1951年に『鉄腕アトム』の連載を開始したときには、当然ながら地続きに「SF御三家」がいて、その友達には三島がいて、そのすぐ隣に澁澤龍彦がいて、その隣に野坂昭如がいて、1960年代に入ると一緒になって「サド裁判」とかやってました。

SFと耽美主義・ゴシックロマンといった分野は、時間軸で真逆を向いているようでありながら「ここではないどこか」を目指すという逃避性、または挑戦性の点で、よく似ているのです。

現代の同人界において「少年趣味」の意味で使用される「ショタ」という言葉は、第一義的には戦前の探偵小説に由来します。

探偵小説というのも、また空想的・怪奇的娯楽作品の一種であって、それを手がけた江戸川乱歩・谷崎潤一郎・夢野久作・小栗虫太郎などは、同時に耽美派・ゴシックロマン派であったといってもよいでしょう。

そしてゴシックロマンは、ラヴクラフト(またはダーレス)を通じて、宇宙と異次元へ直結していきます……

そしてまた、日本における言葉の耽美主義と宇宙への憧れの混淆の、最高の具現者を稲垣足穂としてもよいでしょうか。

彼はまた、中世以来の「衆道」を軽妙、かつ思い入れ深く詳述した『少年愛の美学』の著者でもありました。

(足穂『ヴィタ・マキニカリス』が鴎外『ヴィタ・セクスアリス』を意識していることも忘れちゃいけませんね。)


【大学生における混淆。】

当時の大学生は、男女を問わず、他に娯楽が少なかったこともあって、様々な作品を精力的に読んでは、模倣・改作に励んだことでしょう。

アニメ化されたことのないはずの、ナボコフの『ロリータ』という作品が、なぜアニメファンに知られているのか?

アニメが流行するよりも前から、SFも読めば純文学も読むという人々がいて、その後輩からそのまた後輩へ、連綿と語り伝えられてきたと考えることができるでしょう。

考えてみれば、かぐや姫というのは「想像を絶する美少女は、じつは宇宙人だった」という話です。

だったら、太陽神のような美青年が、日輪の馬車ではなく、UFOから降りてきても良さそうなものです。

あるいは、地球を脱出した人類が、異星で古代文明のような都市を築き、その宮殿でサド侯爵ふうの乱脈を繰りひろげ、その挿絵が手塚治虫の漫画そっくりである。

ありそうな話です。


【アダルト化。】

またいっぽうには、永井荷風と谷崎潤一郎をこよなく敬愛するくせに自分じゃポルノばかり書く団鬼六という男がいて、彼だけの責任でもありませんが、耽美という言葉はやがて換骨奪胎され、官能作品を表す隠語のようになってしまいました。

並行して、漫画のヤングアダルト化が進行していたかと思われます。

少年漫画というのは、名称からして「少年の心を表現している」と誤解されがちですが、描いている人は成人なのです。ちばてつや『あしたのジョー』は、学童向けとは言えません。

日本の漫画に暴力と性の要素が多いのは、それが(絵本や児童文学のように)職業的な自制心をもって学童向けに描かれたものではなく、子供に読ませることを口実に、描いているヤングアダルト自身を満足させるものになってしまったからです。


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